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Seoul

01034024412

伊藤 悠吾/Yugo Ito/ダゲレオタイプDaguerreotype/湿板写真WetPlateCollodion/乾板写真DryPlateCollodion/ - Materialising the moments -
"Oblivion Terror" x "Craving For Existence" x "Physical Linkage" x "Impermanence" x "Physical Photography"

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【あ】

《IT革命》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第二章 IT革命は人類に何をもたらすのか
第1節 人類史を変える二つの「革命」

_SNSは独裁国家を倒して「民主主義」を実現できるのか?_

  • 2010年のチュニジアの革命を振り返ってみましょう。p. 79

  • その革命は、失業中だった1人の青年が、路上で野菜を販売していたところ、販売に許可がないとして役人に商品を没収されたことから始まりました。青年は、それに対する抗議として焼身自殺を図ったのですが、この自殺について新聞やテレビなどの既存のメディアは取り上げませんでした。ところが、その現場に居合わせた人(いとこ)が、携帯電話で動画を撮影し、それをFacebookにアップロードしたのです。p. 79

  • 政府などの秘密情報暴露するサイト「ウィキリークス」も大きな影響を与えました。p. 80

_スマートフォンの存在論_

  • イタリア現代哲学の旗手マウリツィオ・フェラーリスの「ドキュメント性」という概念に注目したいと思います。p. 82

  • かつてマーシャル・マクルーハンが「メディア論」で提示した予言を取り上げます。マクルーハンによれば、現代はグーテンベルクの活版印刷(書物)の時代が終わり、映像や音声(テレビや電話)の時代に途中突入しています。p. 82

  • ところが、フェラーリスは、現代はむしろ、「書くことのルームメート向かっている」と考えます。p. 82

  • ◉フェラーリスは、現代のスマートフォンが、「書き、読み、記録するための機械」になっている、と述べています。さらに、「ドキュメント性」という概念で表現しています。p. 84

  • ◉「ドキュメント性」の特質は、一つ目は公共的なアクセス可能性、二つ目は消滅せずに生き残ること、三つ目はコピーを生み出せることです。p. 84

_SNSは市民のためのメディアではない?_

  • デイヴィット・ライアンが指摘しているのは、ソーシャルメディアの危険性です。インターネットで自分の情報を公開して多くの人がその情報を共有し、ネットワークが形成されるシステム。そうしたシステムは、反政府運動を行うときは、極めてリスキーと言わなくてはなりません。SNSは監視の手段としても利用される。p. 85

 
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イコール

『遺言。』- 養老 孟司

3章 ヒトはなぜイコールを理解したのか。

  • ◉動物の意識にイコール「=」はない。p. 49

  • 文化人類学者のレヴィ=ストロースは、「人類社会は交換からはじまる」と述べた(らしい)。私はそれに対抗して「人類社会イコールからはじまると」言いたい。p. 52

  • ◉ヒト社会はかならずしもボス支配にはならない。なぜなら人間は平等だからである。平等とは互いに「同じ」人間じゃないかということであり、たがいに交換可能と言う意味である。p. 58

  • それが言葉、お金、民主主義などを生み出した。p.59

4章 乱暴なものいいはなぜ増えるか

  • ◉物事を単純にいうためには、乱暴にいうしかない。言葉を使うとは要するに「同じ」を繰り返すことである。p. 70

  • マス・メディアが発達するのも、ネットが流行するのも、われわはひたすら「ネッ、同じだろ」を繰り返す。なぜなら言葉が通じるということは、同じことを思っているということだからである。p. 70

  • いまでは神経科学で、ミラー・ニューロン(他者の動作を目にしたときに、自身の動作であるかのように反応する神経細胞)というものが知られるようになった。p. 71

  • この種のニューロン(神経細胞)の存在は重要である。脳と脳との間で「同じ」が成立するための生物学的な根拠、さらには考え方の実例として重要なのである。p. 72

  • 最初にこの種のニューロンが発見されたのは、サルの脳である。p. 72

  • ◉ミラー・ニューロンが見つかった部位は、ヒトでいえば言語を扱う領域に近いのである。p. 72

5章 「同じ」はどこから来たか

  • ヒトの意識の特徴は「同じだとするはたらき」である。p. 77

  • 概念どうしの違いがある。抽象名詞、正義とか公平になると、大問題になりかねない。p. 78

  • ◉ヒトの脳の特徴は、大脳皮質がやたらに肥大したことである。新皮質と呼ばれる部分である。p. 78

  • なぜかというと、それは発生時に脳の原基となる神経間の先端だからであろう。神経系を管とみなすと、その管の先端が大脳で、そのさらに先端が大きくなった。p. 80

  • 視覚、聴覚、触覚、そのどれもが、下位の、つまり末梢に近い中枢からはじまり、順次情報処理を受けて、最後に新皮質まで上がってくる。p. 80

  • 寝室には、末梢からの情報が、視床のような中継を経て、最初に新皮質に入ってくる部分がある。それを視覚、聴覚、触覚、それぞれの一次中枢という。p. 81

  • ヒトでは大脳皮質の中で、一次中枢するより先がむやみに広がったのである。p. 82

  • ◉視覚、聴覚の情報処理が一次、二次、3次中枢というふうに、皮質という膜を波のように広がっていくとすると、どこかで視覚と聴覚の情報処理がぶつかってしまうはずである。そこに言葉が発生する。p. 83

  • ◉言葉は視覚的でも聴覚的でも、「まったく同じ」だからである。というより、ヒトはそれを「同じにしようとする」。p. 83

  • つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。それが言語中枢であろう。p. 83

  • ◉「同じ」を繰り返すことで、感覚所与の世界から離脱し、一神教に至ることが可能となる。無限に多様ともいえる感覚所有の世界から、「同じ」と言う手続きを繰り返すことによってピラミッドの頂上にすべてを含んだ唯一の存在を構成できるからである。p. 87

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意識

『遺言。』- 養老 孟司

6章 意識はそんなに偉いのか

  • カメラ・アイという特殊な視覚がある。目で見た情景を、写真のように記憶してしまう。p. 92

  • 動物の視覚は、むしろカメラ・アイが普通ではないか。p. 93

  • 聴覚での絶対音感に通じるところがある。p. 93

  • ◉ヒトはその段階を抜けて、いわば「上から目線」で世界を見るようになった。「同じだとする」能力も、その典型であろう。こうした能力を「抽象化」と呼ぶこともある。p. 93

  • ◉意識は自分で戻ろうと思って、戻るわけではない。いわば勝手に戻る。身体の都合、脳の都合で戻る。意識は基本的に主体性がない。p. 94

  • ◉そのくせ、意識があると、その意識は自分が一番偉いと思っている。p. 94

  • 意識は「身体を動かすのは自分だ」と思っている。p. 94

  • 面白いことに、覚醒しているヒトの脳と、寝ているヒトの脳とでは、消費するエネルギーがほとんど違わない。p. 96

  • 意識とは秩序活動である。秩序の反対は無秩序、つまりランダムである。意識はランダムなことをすることができない。p. 96

  • ◉じつは意識には科学的定義はない。p. 102

  • 脳からどのように意識が発生するのか、その機構はよく知られていない。p. 104

  • 還元論とは、物質は分子からできており、分子は原子から、原子は素粒子からできている、というふうに、より下位の要素の集合として、何かを説明する方法である。p. 104

  • 原核生物であれ、真核生物の細胞であれ、それぞれに「意識の下」みたいなものが、ごく微量かもしれないが含まれている可能性がないか。こうした立場を汎神論と呼んでも良い。p. 105

8章 社会はなぜデジタル化するのか

_昨日の私と今日の私_

  • 「昨日の私と今日の私は違う」と言ったとする。ところが昨日の私はもういない。現在時点の感覚では捉えられない。つまり「昨日の私」は直接の感覚所用に立脚していない。p. 130

  • ◉「同じ」には基本的に違う使い方が2種類ある。p. 131

  • ◉「同じ特定のあるもの」と言う使い方と、複数のものを「同じにする」と言う使い方である。p. 131

_『平家物語』と『方丈記』の時間_

  • 鎌倉時代の初めに『平家物語』と『方丈記』が成立している。この二つの書き出しは、どこか似ている。すべてのものは、時とともに移りゆく。すなわち諸行無常である。p. 131

  • 『方丈記』:行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくの如し。p. 132

  • ◉現代医学では、我々の身体は七年で物質的には完全に入れ替わるという。いつも同じ自分であるようで、実質はじつは入れ替わっている。p. 132

  • 『平家物語』:祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありp. 133

  • 祇園精舎は古代インドのお寺である。そこに無常堂と言う小屋がある。お坊さんが死を迎える時になると、この無常堂に移される。無常堂の四隅には、瑠璃の鐘が下げられている。臨終になると、この鐘がひとりでに鳴りだす。p. 133

_「私は私」と意識はいう_

  • ◉西洋では諸行無常を古代ギリシャ時代に発見している。ヘラクレイトス学派の「万物流転」である。ギリシャ語ではパンタ・レイ。p. 134

  • ◉ところがこの言葉はヘラクレイトスの時代から「同じ」である。実物はひたすら変化するけれども、言葉は変わらない。いつも同じである。ここでも意識の持つ「同じにする」という働きが貫徹している。p. 134

  • ◉身体そのものは、昨日と今日とで、決して同じではない。哲学でいう自己同一性、それは意識の持つ「同じだとする働き」そのものともいえる。今日の意識が、昨日の意識を指して、「同じ私」と言うからである。p. 135

  • ◉しかしその「私」を外部から科学的・立間的・物質的に、すなわち感覚を介して観察すれば、ひたすら変化を続けている。p. 135

  • ◉意識は毎日、眠ることで定期的に失われる。でも生きている限り、毎日再び戻ってくる。戻ってきた意識は「同じだとする働き」を含んでいる。だから意識が戻ったらすぐに「同じ私」が戻ってしまう。p. 135

終章 デジタルは死なない

_「情報」の発見_

  • ◉意識中心の都市型社会では、個々の具体的な局面で感覚側が社会的には敗北することが多い。p.168

  • 意識側からすると反対ばかりするな、対案を出せということになる。しかし対案は意識的に作られる。それなら対案を出すことは、根本的には意識という土俵に乗ることである。

  • 考えて決定すれば、おそらく意識が勝つ。ゆえに日本は戦後もどんどん「近代化」した。p. 169

  • 「じゃあ、どうすればいいんだ」という反論が生じる。この反論自体がすべてに意味がある、つまり物事には必ず理由があると考える「ああすれば、こうなる」意識の典型的な働きだから、感覚側には答えがない。p. 169

_少子高齢化の先行き_

  • ◉都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。ところが子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そうゆう存在を意識は嫌う。意識的にはすべて「ああすれば、こうなる」でなければならない。p. 172

  • 感覚入力や一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界に住み着いているからである。p. 172

_不死へのあこがれ_

  • ファーブルは意地悪をした。作りかけの巣の底に穴を開けて、青虫を取り除いてしまう。でも親のハチは作業を継続し、最後に徳利の首を作り、蓋を作って飛んでいく。つまりハチは一定の手順で仕事をしているだけで、何も考えていない。これをファーブルの時代には本能と呼んだ。p. 178

  • 「同じにする」という意識の働きを、とことん煮詰めていったら、遺伝子のすることと、意識のすることが「同じ」になった。p. 179

  • ◉意識は別に偉くない。その存在自体が身体に左右されているからである。p. 179

  • ◉意識はそれが気に入らないから、不死を希求する。p. 179

  • ◉偉いのは俺だと、あくまでも主張する。世界を支配しようとする。でも間違った権力者に世界を支配させると、世界は滅びる。p. 179

  • ◉ヒトの生活から意識を外すことができない。できることは、意識がいかなるものか、それを理解することである。p. 179

『手入れという思想』- 養老 孟司

手入れ文化と日本

  • 人間は意識だけでできているわけではありません。意識と言うのは脳のほんの一部です。p. 241

  • ◉脳全体の働きのほうが意識よりも広いに決まっています。そんなのは体の一部ですから体の方が脳より広いに決まっているわけで、その一番狭い意識が「脳がどうだ」「体がどうだ」と言っても不十分に決まっているわけですp. 241

 

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意味

『遺言。』- 養老 孟司

2章 意味のないものにはどうゆういみがあるか

  • すべてのものに意味がある。都会人が暗黙にそう思うのは当然である。p. 35

  • ◉なぜなら意味のあるものしか置かないからである。p. 35

  • ◉その裏には、さらにその意味が「自分にわかるはずだ」と言う、これも暗黙の了解がある。p. 36

  • ◉すべてのものに意味があるという、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたため、自分がわからないことを、「意味がない」と勝手に決めてしまう。その結論に問題がある。p.36

  • ◉感覚所与には意味がない。世界が変化したということを、とりあえず伝えてくれるだけである。意味は与えられた感覚所与から、あらためて脳の中で作られる。p. 37


【か】

《型》

『手入れという思想』- 養老 孟司

脳と表現

  • 身体の表現と脳の表現というのは、やはり同じ一つの文化の中でお互いに支えやっていることにだんだん気づいてきます。p. 187

  • ◉日本では、身体を表現する努力を「修行」と言い、その具体的な方法を「道」と言い、それが表現として完成したものを「形」と言ったんです。p. 187

  • ◉じつは茶道というのはじっとしているものではないわけです。基本的には動いているわけで、あれは身体の所作です。運動です。身体表現です。それが表現だということがわからなくなっているのが現代です。p. 188

  • 表現ですから、何かを伝えようとしているわけです。p. 188

  • ◉我々の文化が、明治維新以降何をしてきたかと言うと、近代化と称して意識的表現、すなわち言葉、芸術、絵画、音楽といったようなもので、身体の表現を置き換えようとすることです。その努力の連続でした。p. 189

  • ◉現在では、それが来るところまで来て、身の回りのほとんどが言葉の世界になっています。p. 189

  • ◉文化と言うのは言葉、絵画、音楽、すなわち意識的表現の世界だけではありません。実は体の表現が半分を占めていたわけです。

  • ◉ですから「男は黙ってサッポロビール」と先ほど言いましたが、それを支えていたのは同時に身体の表現であったわけです。p. 190

 

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《渇愛》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第3章 ブッダの教え

_渇愛_

自己本位な心によって自分の執着を貫く渇愛は苦しみの根源である

  • ◉「渇愛(Taṇhā):元はサンスクリット語の「トリシュナー(渇き)」の意味で、喉が渇ききった人が水を求める衝動や執念、際限はなく広がり続ける満たされない欲望のことです。p. 148

  • ◉「欲愛(Kāma-taṇhā [sensual pleasures craving])」:性的悦楽、権力、快楽を激しく求める渇望。p. 148

  • ◉「有愛((Bhava-taṇhā [craving for being])」:いつまでも生き続けたい、死後に何らかの形で存在したいという望。p. 148

  • ◉「無有愛(Vibhava-taṇhā [craving for non-existence])」:生存することに意味を見出せず、自ら命を絶とうとする欲求。p. 148

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《鎌倉仏教》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第5章 仏教の伝搬

_鎌倉新仏教_

動乱の時代に支持を得た浄土信仰と台頭する禅宗・日蓮宗

  • 平安末期から鎌倉時代、ぶしや僧侶の権力争いが続き、天変地異による疫病と飢餓が流行りました。p. 244

  • ブッダの入滅1500年目に、教えだけが残り、執行も覚りもなくなるという末法思想があります。p. 244

  • そんな風潮を背景に広まってきたのが、一心に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという浄土信仰です。p. 244

  • 法然は「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるという浄土宗を開きました。p. 244

  • 法然の弟子親鸞は、救いのすべては阿弥陀仏の本願によるという他力本願の浄土真宗を開きました。p. 244

  • 平安中期の空也の踊り念仏に倣った一遍は念仏を唱えながら踊り布教をしました。p. 244

  • 禅宗は一時断絶していましたが、経典を離れた坐禅の修行を主とする禅が、中国から再移入されました。栄西が開いた日本臨済宗は、京都・鎌倉の上流社会に広がり、道元を思想とする日本曹洞宗は、地方の武士・庶民の間に広がりました。p. 244

  • 日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えると日蓮宗を興しました。国民が『法華経』に帰依することで「立正安国」、つまり国家の救済を目指したのです。p. 244

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感覚所与

『遺言。』- 養老 孟司

2章 意味のないものにはどうゆういみがあるか

  • ◉目に光が入る、耳に音が入る。これを哲学では感覚所与と言う。とりあえず感覚器に与えられた第一次印象と言っても良い。p. 30

  • ◉動物は感覚所与を使って生きている。p. 30

  • ◉われわれは感覚でいったいなにをまずとえているのだろうか。それは世界の違い、変化である。p. 32

  • つまり外界の変化に依存して働く。外界が変化しなければ、自分の方で変化を起こす。p. 32

  • ◉われわれの意識は、多くの場合、感覚所要を直ちに意味に変換してしまう。p.33

  • ◉だから「意味のない」感覚所用を無視することに、多くの人は意識的でなくなるのである。それが人の癖、意識の癖だと言っても良い。p. 32

  • 現代生活は感覚が働かないように、できるだけ努める。歳の生活は、そうした感覚入力をできるだけ遮断する。p. 34

  • ◉感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。p. 35

  • 科学実験は感覚所与と脳内の意識の対立である。p.43

  • ◉自分の側から見れば、自分の感覚と意識の乖離を、感覚優位で解消することなのである。p. 43

  • ◉外界の実在は脳が納得していることで、べつに「証明」されているわけではない。にもかかわらず、感覚所与を外界の実在の証拠として捉えてしまう人がいかに多いか。p. 44

  • 結論的に言えば、科学とは、我々の内部での感覚所与と意識との乖離を調整する行為として捉えることができる。p. 47

 

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奇数の美

『茶と美』- 柳 宗悦

_一_

  • ◉「破系(deformation)」とは定まった形を破ることで、自由を求める人間の希願のい現れだといってもよい。p. 291

  • 分かりやすく「奇数の美」と呼ぶことにしたい。「奇」とは何も奇怪という意味ではなく、「偶」に対する「奇」で、「整わざる様」である。p. 291

  • 形を不均斉、不整備のままにすることで、割り切れないものの深みを現すためである。p. 291

  • 特に中世期よりも前に遡ると、処の東西を問わず、表現は常に破系で示されているといってもよい。p. 292

  • 自由が破系に自ら帰すると言う意味で、破系の主張には、深い真理があるといってよい。p. 293

  • 自由な美である限り、奇数の美に必然と帰る。p. 293

_二_

  • この奇数の美を最も早く鑑賞し、またこれを創作の原理たらしめたのは、実に日本の茶人たちである。p. 293

  • 桑田忠親氏の『日本茶道史』によると、「数奇」という言葉は「好」の当字に過ぎぬという。p. 294

  • 『禅茶録』に、その趣旨は贅沢な好みに片寄ることを排し、むしろ足らざるに足るを知るのが数奇の意だという。p. 295

  • ◉数が奇数で零余(はした)が現れ、不十分さを示唆するところに、茶精神を見るのである。p. 295

_三_

  • ◉好みには浅い好みがあったり、物好きに溺れたり、しかも色好みなどと言う聯想もあったりして、とかく茶の道からは離れる。それ故「好」と区別して、わざわざ「数奇」の二字を用い、別に新しい意味をこの言葉に持たせたと見るべきであろう。p. 296

  • その後「数寄」の文字を用いるようになった。「寄」は「心を寄せる」で、従って「好」の意を留める。p. 296

_四_

  • 近代芸術の特色であるが、東洋ではそれよりずっと以前から、茶の湯においては「数寄」の美として厚く鑑賞せられた。p. 298

_五_

  • ◉岡倉天心の『茶の本』には、奇数の美を「不完全の美と」呼んだ。p. 299

  • 茶人達はそこに無量の美を見てとった。p. 300

  • ◉仮に形がきちんと整っていると、それは完全さに決定されてしまって、余韻も何もなくなる。つまり福港なく、自由さが拒否されてしまう、その結果、完全な様は、静的で規定的で、固く冷たいのである。p. 300

  • ◉人間は、(恐らく自身が不完全になるため)完全なものに不自由さを見出すのである。p. 300

  • 美しさには、ゆとりがなければならない。人間は自由の美を求めて止まない。p. 300

  • 茶美とは不完全美である。完全な形は、却って充分に美しい形とはならぬ。p. 300

_七_

  • ◉完全不完全は、詮ずるに相対の言葉に過ぎまい。また否定肯定も同じである。p. 302

  • そういう区別の絶えた境地、あるいは完全と不完全とか未だ分れぬ以前の世界、あるいは完全に即する不完全というような境地にこそ、茶美がなければならない。p. 303

  • それで畢竟二相に囚われぬ自由の美こそ、その本性なのである。かかる美を私は奇数の美と仮に呼ぶのである。p. 303

_八_

  • 朝鮮茶碗、唐物の茶入にしろ、不完全さを狙って作られたものでは決してない。同じように完全に反発して、その否定を企てた結果でもない。そんな分別が発する前に、素直にできてしまったのである。p. 304

  • 禅語の「只麼(しも)」のように作られたに過ぎぬ。それは元来は雑器であって、それ故「完全への否定」と言うが如き意図を持つ縁から甚だ遠い。また不完全に美を感じた上での作物でもない。ただ作られたのである。いとも平易に坦々と作られたのである。それ故にこそ「只」なのである。

  • ◉雅致など狙えばすぐ不自由に落ちてしまう。同じく自由を狙えば、その自由に囚われてしまう。それ故完全を否定するなら、新たな不自由に落ちよう。例の茶碗も茶入も不自由さを持たぬ。p. 305

  • 試みに朝鮮を旅してその工房でも訪えば、すべての謎が解けるであろう。その仕事場、轆轤の据え方、挽き方、釉の掛け方、絵の付け方、窯の築き方、焚き方、いずれも皆自然さそのものなのである。風が吹き、雲が動き、水が下に流れる様と、そう大した変りはない。p.305

  • ◉この融通無碍な様こそが、尽きぬ雅致の泉なのである。雅致を狙えば、どうしてそんな雅致が現れよう。たちまち不自由なものに陥るからである。美しさが自から奇数を帯びるのは、いかに無碍だかのしるしなのである。p. 306

_九_

  • 茶人達は「数奇」を「麁相(そそう)なるもの」といった。「麁」は「粗」で、荒い様で、奇数の意である。p. 306

  • ◉「貧しさの美」と呼んでよい。富の反律としての貧ではなく、むしろ真の富をつつむ貧で、長らく東洋の哲理が説いた「無」の境地である。それが形をとる時、「渋さ」とも呼ばれ、すべての美の目途となった。p. 306

  • 例えば西洋の焼き物には無地ものが極めて少なく、またそれを味わう見方も、ほとんど見られないのである。奇数より偶数を追ったのが西洋の見方であるとも言える。p. 307

  • ◉ギリシャ美学の理念は完璧な美に置かれたといえよう。p. 307

  • ◉東洋はこれに対し、奇数の相を追い、その現れを自然の中に見つめた。p. 307

  • ◉前者は割り切れた均斉の美、後者は割り切れない不均斉の美である。p. 307

  • ◉西洋において科学が発達したのは、合理性が、ものの考えの基礎をなしているからである。p. 307

  • ◉東洋では理性よりもむしろ直観の立場を選んだのである。p.307

  • かかる含みを宿す美を「渋さの美」と讃えたのである。p. 308

  • ◉作る者が見るものに明示する美ではなくして、むしろ見る者に、美を引き出さしめる品を作るのが真の作者となってくる。かかる意味では、見る者を作家にせしめる美が、渋さの美、茶の美だと言える。p.308

_十_

  • ◉作為の美ではなく、作為から自由に解放された美だといえる。p.308

  • 近代美術におけるデフォーメーションとは、意識的な意図によるもの。p. 309

  • 近代で求められた奇数の美とは、目的的な仕事に過ぎない。茶器の方作る者と作られる物との間に、そんな二元的な関係はない。p. 309

  • 近代の破系美は、むしろ自由にこだわった新たな不自由系といってよい。p. 310

 

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客観

『遺言。』- 養老 孟司

2章 意味のないものにはどうゆういみがあるか

  • 感覚所与まではいわば「客観」である。p. 41

  • 動物はそれを頼りに生きている。p. 41

  • 動物と違って、感覚賞与に頼らなくなったとすると、人には何かが起こったに違いない。p. 41

  • 科学は客観的だ。以前はそんな言い方をした。p. 41

  • ◉客観とは、感覚所与に依存することである。p. 41

 

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《クローン》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
第2節 クローン人間は私たちと同等の権利をもつだろうか

_クローン人間にまつわる誤解_

  • クローン人間といっても、コピーのように、そっくり同じ人間(コピー人間)が作り出されるわけではありません。体細胞クローンというのは、受精卵の卵子から核を取り除き、そこに精子ではなく、ある人物の(A)の体からとった細胞の核を移植するという方法です。p. 137

  • クローン人間には、その人物(A)の遺伝情報が受け継がれるのですが、核を移植された卵子(クローン胚)は女性の子宮に戻さなくてはならず、その後は通常の出産と同じ方法で生まれます。このクローン人間は、いわば年齢の違ったAの「一卵性双生児)といえます。p. 137

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_一卵性双生児とクローンは何が違うのか_

  • G.E.ペンスは『誰が人間のクローニングを恐れるのか』(1998年)を発表し、クローン人間擁護論を展開。p. 139

  • 30年前では、たいていの人が試験管ベビーを恐れていたのですが、現在では、試験管ベビーはごく普通の出産方法となっています。じっさい日本でも、現在は30人に1人の割合で試験管ベビーがと言われています。p. 140

_クローン人間の哲学_

  • ユルゲン・ハーバマスは2001年に『人間の将来とバイオエシックス』を公刊し、人間に対する遺伝子操作や優生学的プログラミングに対して、規制すべきことを強く主張しています。p. 142

  • 「遺伝内容を意図的に決定することが意味するのは、クローンにとって、その誕生以前に他の人がそれに対して定めた判断を、生涯にわたって恒常化させ続けることである。」p. 143

  • クローン人間にとって、「誕生の所与性(与えられていること)」は、いかなる偶然的状況でもなく、むしろ意図的な行為の結果である。他の人にとっては偶然の出来事であるものを、クローンは他人に責を帰せるのである。利用不可能な領域への、意図的な介入の帰責可能性が、道徳的・法的に重要な区別を作り出すのである。p. 143

  • ◉アリストテレス以来、「技術的に作られた」ものと「自然的に生じた」ものは、「自明の対立項」となってきました。ところが、現在のバイオテクノロジーによって、「われわれが直感的につけている区別」が混乱してくる、というわけです。p. 145

  • ◉ハンナ・アレントの「出生性(natality)」という概念。p. 145

  • ◉人間は出生することによって、自分独自の生命が始まる、という考えです。ハーバマスの考えでは、クローン人間の場合は、この「出世性」がなくなってしまう、というわけです。p. 145

  • ◉今まで、技術が向かう先は、人間以外のものでした。ところが、バイオテクノロジーによって、自然を変える技術だったものが、人間の自然(本性Nature)を変えるようになり始めたのです。p. 145

 
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芸術

『遺言。』- 養老 孟司

7章 ヒトはなぜアートを求めるのか

_芸術は解毒剤である_

  • ◉同じという機能を持った意識も、違うものがなければ具合が悪いと、暗黙のうちに知っているに違いない。だから文明とともに生じるヒトの典型的行為があって、それがアート、すなわち芸術となる。p. 108

  • いうなればアートは「同じ」を中心とする文明世界の解毒剤といえる。p. 108

  • どうしてそこまでオリジナルにこだわるのか。芸術におけるオリジナルはほとんど絶対的である。とにかく「1枚しかない」。p. 109

  • ◉芸術が感覚から始まる以上、それはいわば当然である。世界を感覚で捉えたら、同じものは一つもないからである。同じものが一つもない世界で、優れたもの、それを芸術作品という。p. 109

  • ◉それしかないという作品の独自性は、「同じ」と言う世界を解毒する。王侯貴族が芸術を好むのは、それでわかるような気がする。王侯貴族には単に余裕があって高い金が払えるというだけではない。ふだん「同じ」世界を構成することに邁進しているから、「違う」を前提とする世界に触れたいのではなかろうか。p. 110


    _征服者は世界を「同じ」にする_

  • ◉科学上の理論は、しばしば美しいとされる。「真理は単純で、単純なものは美しい」。よくそう言われる。p. 111

  • ◉ただし私は絶えず反論する。真理は単純で美しいかもしれないけれど、事実は複雑ですよ、と。感覚性は多様だけれど、頭の中ではその違いを「同じにする」ことができるから、結果が単純になるんでしょ、と。p. 111

_唯一神誕生のメカニズム_

  • ◉芸術は宗教とも関連する。宗教にも「同じ」を中心とする一神教と、「違う」を認めると多神教がある。最底辺には、感覚で捉らえられたもの、全てが異なる実在がある。意識はそれに対して「同じ」という機能を働かせる。p. 111

  • では頂点には何があるか。宇宙の具体的な事物のすべてを含んだ、唯一のものが位置している。これが唯一絶対神であろう。p. 112

  • ◉一神教が都市に発生したのは偶然ではない。私はそう思う。都市は意識が作るからである。p. 112

  • ◉では最底辺を拝めはどうか。それが八百万の神である。p. 112

  • コンピュータは芸術を創るだろうか。本質的には創らない。p. 113

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  • 少なくとも今のコンピュータは、芸術に前提される、唯一性を持っていないからである。いくらでも複製ができてしまう。そういう機械の世界に唯一性を持った芸術が発生するはずがない。p. 113

    _生演奏は強い_

  • これは超音波に限った話だが、じつはそれ以外に、生演奏には何が含まれているか、わかったものではない。p. 113

  • ◉意識はわかってないことは、ないこととして無視する。そしてすべてをゼロと一にしてしまう。だから私の芸術に関する結論は簡単である。芸術はゼロと一との間に存在している。p. 113

_その「赤」は同じか_

  • クオリアは英語の質(quality)と関連している。p. 116

  • ◉クオリアは感覚の与える質感のようなものを指す。p. 116

  • ◉ただしこの質感は、他人に感知できない。p. 116

  • ◉現代社会のように、情報が溢れている中で育つと、すべては説明可能だいつの間にか信じ込む。p. 117

  • ◉クオリアは言語にならない。むしろ「感覚からわれわれが受け取るもののうち、言語化できない部分、ないし言語化しようがない部分をクオリアという。p. 117

  • ◉そこをなんとか伝達可能にしようとする最前線の試み、それがアートだともいえる。p. 117

_アートの効用_

  • 対人関係なら、絶えず相手を自分と交換して、相手がどう考えるかを推測しなければならない。アートにはその必要がない。p. 121

  • 作者が隣に立って作品の意味をいちいち解説する。そんな芸術作品があるか。何百年も昔の絵画が珍重される理由の根本はそれかもしれない。作者がしゃしゃり出てきて、余計なことをいう心配がまったくないからである。p. 121

 

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《言語論的転回》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第一章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第1節 ポストモダン以後、哲学はどこへ向かうのか

_「言語論的転回」とは何か_

  • 哲学の世界的な潮流を考えるとき、1960年代頃までは、およそ3つに分類されていました。p. 30

  • ◉一つ目がマルクス主義、二つ目が実存主義、三番目が分析哲学です。p. 30

  • フランスの実存主義は、その流行を現象学や構造主義に譲り、さらには70年代になるとポスト構造主義がブームとなりました。p. 31

  • 他方のマルクス主義は社会主義体制の歴史的な崩壊と相前後するように、影響力を失っていきました。p. 31

  • ドイツで勢力を広げていたのは、フランクフルト学派や解釈学などでした。p. 32

  • アングロサクソン系の分析哲学は現代哲学の中心的な勢力を保っています。p. 32

  • 社会的なグローバリゼーションの進展に伴って、哲学の世界でも地域的な独自性が次第に薄れつつあります。p. 32

  • ◉リチャード・ローチの「言語論的転回」という言葉です。p. 33

  • ◉「(言語的哲学とは)哲学の諸問題は言語を改革することによって、あるいは我々が現在使っている言語をより一層理解することによって、解決ないし解消しているという見解。」p. 33

 
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  • フランスではソシュールやヤコブソンの言語学に影響された構造主義や、それ以後ポスト構造主義も、言語論的展開のうちに参入されます。p. 33

  • またドイツで展開された、ガダマーなどの解釈学や、ハーバーマスが提唱する「コミニケーション理論」も言語論的転回のうちに位置づけることができます。p. 33

  • ◉それ以前は「認識(知識)論的転回」と呼ばれています。p. 35

  • ◉近代哲学は通常、デカルトに始まる大陸型の合理論とロックやヒュームからのイギリス経験論に分けられますか、このいずれも主観と客観の関係に基づいた意識の分析に集中します。p. 35

 

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ゴータマ・シッダッタ

『ブッダの教え』- 田村太秀

第1章 覚りへの道

_恵まれた環境を捨てた王子は6年間の苦行のすえ覚りを開く_

  • サーキャ族の国、ゴータマ・シッダッタと名付けられた王子は、ヴェーダをはじめとする学問や伎芸に優れた才能をあらわした王子でしたが、感受性が強く、深く思い悩みがちでした。p. 42

  • 「人はなぜ、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみから抜け出せないのか。」p. 42

  • 29歳のある夜、ひそかに宮殿を抜け出すと、出家し真理を求める旅にでました。p. 42

  • 誰もやったことのないような過酷な苦行生活を6年も続けたが、「苦行は自分の求める真理を得る方法ではない。快楽でもなく苦行でもなく、どちらにをかたよることのない〈中道〉であると気づきました。p. 42

  • そして、35歳の満月の夜、菩提樹の下で瞑想に入るとついに覚りを開きました。p. 42

  • 「すべてのものは、因によって起きている=因縁生起」これが、覚った人「ブッダ」の教えの核心になりました。p. 42

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《言葉》

『手入れという思想』- 養老 孟司

心とからだ

  • 目の余っているところに入ってくるのは「絵」です。p. 91

  • 耳の側で余っているところに入ってくるのは「音楽」なのです。p. 91

  • 大脳皮質に目の部分と耳の部分がありますけど、それが重なってくると両側の間に「言葉」ができてきます。そして言葉の「目」寄りに絵があって、「耳」寄りに音楽があります。p. 92

  • では言葉と音楽の1番大きな違いは何か。言葉の場合は、それを取っておいて文字にして出すことができる。音楽の場合には耳で聞かないと、ダメです。しかし根本的には、言葉も絵画も音楽も、目、耳に訴えている同じものです。p. 92

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  • ◉では言葉と音楽の1番大きな違いは何か。言葉の場合は、それを取っておいて文字にして出すことができる。音楽の場合には耳で聞かないと、ダメです。しかし根本的には、言葉も絵画も音楽も、目、耳に訴えている同じものです。p. 92

  • 左右脳を連結している繊維、脳梁と呼ばれている繊維ですが、これは女性の方が大きいということがわかっています。つまり、右と左のつながりがよろしい。p. 95

  • 女性の場合、言葉は得意ですが、空間の把握能力が悪い。苦手なんです。p. 95

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  • アイコン(icon)は元の物の性質を持っている記号です。アイコンは、ちょうど絵画と文字の中間に来ます。p. 97

  • ◉ソシュールという言語学者は、言語の恣意性と言いました。p. 99

  • ◉音は、ほしいまま、勝手気ままについている。p. 99

  • ◉魚が「さかな」という音でなければならないという理由はない。「パシャン」が1番良いわけです。魚がはねる音。p. 99

  • ◉しかし、一目でわかる形も、「パシャン」もやがて「魚」という訳のわからないものになってしまいます。p. 99

  • ◉それは目と耳が共通に処理できないと、言葉にならないからです。p. 99

  • 近代言語は、完全にこういったいわば抽象的な形で成立します。p. 100

  • 言葉と音楽の間にあるものは詩です。p. 100

 
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  • ◉運動性言語中枢(ブローカー野)といって、そこがダメになって言葉がしゃべれなくなるのを運動性失語性といいます。そういう患者さんに、歌ってやると、患者さんはその後について歌える。一緒に歌い出す。途中で医者がやめても続けて歌えるんです。だけどしゃべれない。つまり、歌詞というのは言語ではないというのがよくわかるんですね。p. 101

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  • ◉日本語の一番大きな特徴は何か。例えば「重」という漢字です。何と一個の字で四通りに読んでいます。中国に行ったら音読みしかありません。韓国も音読みしか採りませんでした。日本語のこのような読み方を我々は音訓読みと呼んでいますが、これは日本語の最も大きな特徴です。p. 102

  • ◉普通、脳の左角回(かくかい)が故障すると、字が読めなくなります。ところが日本人の場合は、ここが故障すると仮名だけが読めなくなります。でも仮名が読めなくなってもたいして困りません。まだ漢字が読めるからです。皆さんも仮名が読めなくなってもだいたい新聞はわかるはずです。p. 103

  • ◉日本人の場合、脳の側頭連合野が壊れますと、漢字が読めなくなります。p. 103

アルファベットや日本語の仮名.jpg

【さ】

茶道

『茶と美』- 柳 宗悦

_一_

  • 初期の茶人たちは真に物を見得る者たち。p. 138

  • 大方の人は何かを通して眺めている。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。p. 139

  • 優れた茶人たちは眼と物とが直接に交わるように見る。p. 139

_二_

  • 見るより前に知を差し入れるものは、乏しい理解に止まってしまう。見る力は知る力よりも多くを識る。p. 140

  • 見たから茶道が起きたのである。p.140

_三_

  • 見ることで終わったのではない。彼らは進んで用いたのである。用いたが故になおも見得たのである。p. 141

  • なぜならよく用いられる時ほど物の美しさが冴える時はないからである。よく見たくば、よく用いねばならぬ。p. 141

  • 生活で美を味わうのが真の「茶」である。p. 141

_四_

  • 今まで誰も用いなかったものまで用いたのである。それ以上の器はないと考えられるまでに高めたのである。かく使いこなされた器が茶器なのである。p. 143

  • 健やかな美しさが用いてくれといつも呼びかけてくる。ここで「茶」が生まれたのである。器物が茶道を招いたのである。p. 143

  • 茶祖の驚くべき業績は、器物に新たな歴史を興したことである。「大名物」の前半生は見捨てられたただの器物に過ぎない。p. 144

_五_

  • ◉用い方が彼らで型にまで高まったのである。個人を超えたのである。法にまで徹したのである。p. 145

  • 用いるべき場所で、用いるべき器物を、用いるべき時に用いれば、自ら法に帰ってゆく。p. 145

  • ◉型はいわば用い方の結晶した姿とも言える。煮詰まるところまで煮詰まった時、物の精髄に達するのである。それが型であり道である。

  • ◉「茶」の型は必然であって考案ではない。茶よりも自然なものがあるであろうか。それ故、「茶」はどこまでも道である。道であるからには公である。p. 146

  • 茶道は個人のことを超える。「茶」は個人の道ではなく人間の道である。p. 146

_六_

  • されば茶礼という。礼は式であり範である。礼に到って「茶」も奥義に達した。p. 146

  • かかる礼式に高まってこそ茶道である。方式は我々に遵奉を求める。それだけの権威があっての茶礼である。p. 146

  • 法に即してこそ全き自由が得られるのである。自己を言い張る時、人は不自由に迫られるであろう。茶礼は人々に自由を贈る公道である。p. 147

  • 個人に終わるものは生命が短い。p. 147

  • 型と形とは違う。形のみを誇示する「茶」は、見て見苦しい。しばしば茶道は形式の藝として非難される。それは型の意義を想い誤るからに過ぎない。型を死なしめるのは人の罪であって、茶道の罪ではない。p. 147

  • すべての偉大なる芸術の仕事は法則の発見である。p. 148

_七_

  • 物を愛したのは彼らである。p. 148

  • 少しも個人的な見方で見たのではなく、物をあるがままに眺めたのである。p. 148

_八_

  • ◉この世にはさまざまな美の相がある。可愛いもの、強いもの、派手なもの、粋なもの、各々が美しさの一つである。だが情趣が進めば、いつもたどり着くのは渋さの美である。p. 150

_九_

  • ◉平易なもの、直なもの、質素なもの、簡単なもの、無事なものから取り上げてきたのである。波瀾のない平常の世界に、最も賛美すべき美を見つけたのである。平凡の中に非凡を見るより非凡なことがあるだろうか。p. 153

_十_

  • 彼らが美を観じたのは、遼遠の美においてではなく、現実に即した日においてである。考える美よりも交わる日に、もっと切な愛を感じた。観念においてではなく生活において、さらに深く美を見つめた。親しさの美の本質を感じた。かくて美と生活とを固く一つに結んだ。p. 155

  • この領域を卑下して美術的なるもののみを重く見る美学者達といかに異なるであろう。それらのものは好んで美を思想で味わう。だがここに止まるなら茶道は無い。p. 155

_十一_

  • 「和敬清寂」は繰り返される標語である。p.157

  • 茶道は物の教えから心の教えと高まる。物を備えるものが多く、心を整えるものは少ない。p. 157

  • 「茶」は美の宗教である。宗教に入ってこそ茶道である。

  • 物を介して禅を修するが茶道である。p.158

_十二_

  • 美を修し美に参ぜんとするほどの者は、茶道に徹せねばならぬ。とりわけ美の王国をこの世に建てんと志すほどの者は、茶祖の偉業を想いみないわけにゆかぬ。p. 160

 

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《三毒》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第3章 ブッダの教え

_煩悩_

無明を知ることで煩悩の根源「三毒」を断ち苦しみから解放される

  • ◉「貧欲(とんよく)」:むさぼりや執着ともいわれ、一般的な欲望を意味します。p. 150

  • ◉「瞋恚(しんに)」:人に対して嫌悪、憎悪、怒り、拒否反応を示すことです。p. 150

  • ◉「愚癡(ぐち)」:真実に暗いこと、また無知であること。p. 150

『英語でブッダ』- 大來 尚順

基礎編

  • ◉「三毒」➡︎ Three Poison

  • ◉「貧」➡︎ Desire/Greed

  • ◉「瞋」➡︎ Hatred/Anger

  • ◉「癡」➡︎ Ignorance/Stupidity

 

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《死》

『手入れという思想』- 養老 孟司

心とからだ

  • ひょっとしてあなたたちは、死っていうのはある瞬間じゃないか、死亡時刻と言うじゃないかと思っているんではないでしょうか。p. 109

  • ◉私は死は瞬間ではなくて、経過だという考え方を取ります。そうでしょう。呼吸が止まって脳が死んでいって、その後たとえば腎臓が死んで、筋肉が死んで、皮膚が死んでいくと、それには何日もかかる。p. 109

  • ◉しかし、死をそういうふうな経過だと考えると、生まれてから死ぬまで、人間はゆっくり死んでいくって言ってもいいんです。要するに死の経過を長くとれば、生まれる前からずっと死ぬまで一生が、死と同じになっちゃうんですね。p. 109

 

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《四苦》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第1章 覚りへの道

_出家を決意させた「四門出遊」_
生・老・病・死

  • 城門を出ると、老・病・死の苦しみが待っていた。最後に出家者に会い出家を決意する。p.5º

  • ◉生苦:人生ははかないものであるとしている。p.51

  • ◉病苦:やせ衰えた病人に会い、病はまぬかれないもので、病人を見ると嫌悪感を持ってしまうことを悲しむ。p.51

  • ◉老苦:はが抜け落ちた白髪の老人に会い、自分も同様に年老いることを知って物思いに沈む。p.51

  • ◉死苦:横たわる死人を見て、人間は死ぬものであり、死から逃れることができない現実に悩む。p.51

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《四聖諦》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第3章 ブッダの教え

_四苦八苦_

この世に生きる誰もが避けることのできない8つの苦しみとは?

  • ◉「苦諦」:この世は苦 (思い通りにならないこと)に満ちた世界であり、われわれは苦しみの人生を歩んでいるという真理。p. 140

  • ◉「苦諦」:その苦しみには原因(欲望や執着が限りなく生み出されること=煩悩)があるという真理p. 140

  • ◉「苦諦」:だから、その原因を取り除くことができれば、苦もまた取り除くことができるという真理。p. 140

  • ◉「苦諦」:その原因を取り除くためには八つの方法(八正道)があるという真理。p. 140

『英語でブッダ』- 大來 尚順

基本編

  • ◉「苦諦」➡︎ The Truth of Dukkha.

  • ◉「苦諦」➡︎ The Truth of the Origin of Dukkha.

  • ◉「苦諦」➡︎ The Truth of the Cessation of Dukkha.

  • ◉「苦諦」➡︎ The Truth of the Path Leading to the Cessation of Dukkha.

 

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《自然》

『手入れという思想』- 養老 孟司

手入れ文化と日本

  • ◉日本の自然がそのように非常に丈夫だということから、日本人の文化的なイデオロギーでない心性というもの、伝統というものが出来上がってきたと私は思っています。それを代表している一番端的な考え方が「手入れ」と言う思想です。p. 233

  • ◉自然というのはみんなそうですが、「自然のまま」にしているわけです。それに対して人工そのものの意識というのは「思うようにする」と言うことです。p. 233

  • 山を放っておくと屋久島の森林のようになります。しかし日本の里山はそうではなく、松が生えた山です。松でしたら日が射すので邪魔になりません。すると下のほうに雑木が生えます。さらに雑木の下に草が生えます。その雑木をしょっちゅう切って薪にしていました。そして下のほうに茅などが生えてくると、それを茅葺きなどに使ったわけです。そういうように手入れをして、ああいう里山の状態ができていたのです。p. 234

  • 東京というのは典型的な人工世界です。それに対して屋久島は自然のままです。そのどちらでもないのが里山です。p. 234

  • 虫の種類が1番豊かなのは里山です。p. 236

  • 人間が手入れをしていって作った世界です。それが日本的な世界の特徴だと思いますp. 236

  • 手入れの思想から言えば「ああすればいい」「こうすればいい」ということが成り立たないのです。毎日毎日手入れをしていくしか仕方がありません。自然なものに対してはそうするしかないと言うことです。p. 240

 

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《自然主義》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第一章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第4節 自然主義的転回とは何か

_心を消去することはできるか_

  • ◉ポール・M・チャーランドの論文「消去的唯物論と命題的態度」(1981年)で、彼は「素朴心理学」と呼ばれる心理に対する常識的な考えを批判し、神経科学などの認知科学的理論に置き換えようとしています。p. 64

  • 「ふつう人間は驚くほど容易にかつ首尾よく他者の行動を説明できるばかりか、さらに予測までもできる。そのような説明や予測の際に、われわれは標準的には、行為者が持つとされる欲求や信念、恐怖、意図、知覚などに言及する。しかし、説明は法則を−少なくとも大雑把の法則を−前提とする。(中略)この知識の総合体を、その本性と機能を考慮するならば、「素朴心理学」と呼ぶのが正しく適切だろう。」 p. 65

  • 学問的に形成された心理学ではなく、人間が子どものころから身に付けた、他人や自分の心に関する理解だからです。p. 65

  • チャーランドは、この「素朴心理学」に対して、その原理が根本的に間違っていると批判する。p. 65

  • 「自然誌と物理科学の観点からホモ・サピエンスにアプローチするならば、われわれは人間の組成、発達、行動能力に関して、素粒子物理学、原子・分子理論、有機化学、進化論、生物学、生理学、そして唯物論的な神経科学を含む綜合的な物語を語れる。(中略)われわれは今や人類における最も偉大な理論的相互を手にしており、その一部はすでに人間の感覚入力、神経活動、そして運動制御に関する綿密な記述と説明を与えているのである。」p. 65

  • 『認知哲学−脳科学から心の哲学』(1995年):「いかにして脳はものを考え、感じ、夢を見る自我を維持し、自己意識を持った人の支えとなっているのであろうか。神経科学や近年の人工ニューラルネットワーク研究から得られた新たな成果は、こうした問題に一群の統一的回答を提示している。」p. 66

  • ◉今まで神秘的だった「心」に対する理解の可能性が、大きく広がり始めたわけです。p. 67

_拡張される「心」_

  • アンディ・クラークは1998年に、デイヴィッド・J・チャーマーズと共著で論文「拡張した心」を発表。」p. 67

  • 「人間は外的な存在と、二つの仕方のインタラクションにおいて連結し、一つの統一的なシステムを作り出している。そのシステムは、それ独自の認知システムとして理解される。」p. 67

  • ◉クラークとチャーマーズが提唱しているのは、「心」を頭の中に閉じ込めず、むしろ身体やその周りの環境との相互連関において理解しよう、というものです。「拡張された心」という訂正です。p. 68

  • ◉彼らは能動的外在主義と名付けています。心の在り方や働きを頭の中に閉じ込める「内在主義」ではなく、自分の体や周りの環境と連結し働く「外在主義」なのです。p. 68

  • 「脳は身体化された活動のコントローラーだと考えても、それ以上の実はないと思われるかもしれない。ただこの小さな視点の転換は、心の科学を構成していくにあたって大きな影響を及ぼす。実はこのことによって、知的行動についての考え方を全面的に刷新する必要が生じるのである。われわれは以下のような考え方を捨て去る必要がある。(デカルト以来一般的な)心の領域と身体の領域の区別。知覚/認知/行為を整然と分割する線。高次レベルの推論を働かせている脳の執行中枢。そして何より、思考と身体化された行為とを人為的に分離する研究手法を捨て去る必要があるのだ。そして現れるのは、正しく新しい心の科学である。」p. 69

_道徳を脳科学によって説明する_

  • ◉ジョシュア・グリーンは心理学研究の道に進み、脳科学の手法を習得して、脳がどのように「心」になるかを解明するようになりました。p. 70

  • グリーンを一躍有名にしたのは、いわゆる「トロッコ問題」と言われる二つの事例に対して、fMRIを使った脳画像法からアプローチしたことです。p. 70

  • グリーンの研究が画期的なのは、善いか悪いかという道徳的な判断が、脳のどのような構造や働きによって引き起こされるのか、道徳問題が、脳科学によって実証的に解明できるようになったことです。p. 70

 

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四法印

『ブッダの教え』- 田村太秀

第3章 ブッダの教え

_三法院(四法印)_

仏教の最も大切な教え

  • ◉「諸行無常」:すべてのものは変化し続けており、永遠に不変なものなどは存在しない。p. 132

  • すべてのものは絶えず変化・生滅していて相続し、不変のものは無いという考え方。p. 132

  • ともすると今の状態がいつまでも続くと錯覚し、こだわりを持つので、病気や死を始めとする、様々な変化が起こったときに苦しみが生じるのです。無常であることを知り物事を見れば、何事にも動じず苦しむこともなくなります。p. 132

  • ◉「諸法無我」:すべてのものは「因縁」によって生じたもので、実体は無い。独立して成り立つものはないので「自己」は存在しない。p. 132

  • すべてのものは「因縁」によって生じるので、永遠に不変なものは存在せず、外との関係から独立したものは存在しない、という考え方。p. 132

  • 自分のものだと思っているものも、自分の心さえも、思い通りになるものは何もないのに、自分のものだと思い込むから苦しみが生じるのです。「わたし」「わたしのもの」という執着を離れるように説いています。p. 132

  • ◉「涅槃寂静」:あらゆる煩悩を滅した、苦の存在しない覚りの境地(涅槃)は安らかであるp. 132

  • すべての苦しみは、欲や執着などの煩悩によって引き起こされます。その煩悩を熱しされば、静寂で安らかな世界に入れるのです。p. 132

  • これを涅槃(完全な解脱)といい、仏教の理想であり目的でもあります。p. 132

  • ◉「一切皆苦」:人生のすべては苦しみである。p. 132

  • 生きている限り四苦八苦を避けることができません。p. 132

  • まさにこの疑問が仏教の出発点ともいえます。p. 132

『英語でブッダ』- 大來 尚順

思想編

  • ◉「諸行無常」➡︎ Life is Impermanence.

  • 「Everything(すべての物事は) Including Myself(私自身を含めて) is Constantly(絶え間なく) Changing(変化している).」と表現したほうが適切に感じます。

  • ◉「諸法無我」➡︎ Life is Interdependent.

  • 「Interdependent」の代わりに「Interconnected」「Interwoven」という単語が使用されることもあります。

  • ◉「一切皆苦」➡︎ All Things of This World are Sufferings.

  • ダライ・ラマ14世は「All Contaminated(煩悩に汚染された) Phenomena(現象) are (は) of the Nature of Suffering(苦しみの本質)」と英訳しています。

  • ◉「涅槃寂静」➡︎ Nirvana is Quiescence.

  • 「The State That One is No Longer Bothered by Any Delusion. (どんな迷いの幻想にも悩まされなくなった境地)」とも英訳できます。

 

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情報

『遺言。』- 養老 孟司

2章 意味のないものにはどうゆういみがあるか

  • ◉理想的な状況は、すべての感覚性が意味に直結することである。普通それを情報と呼んでいる。p. 38

8章 社会はなぜデジタル化するのか

_デジカメのデータは変わらないのに_

  • いったん言葉にすれば、それは永久に変化しない。デジカメのデータはいつまでたってもそのままである。いつでも「同じ」ポジを作ることができる。p. 138

  • ◉ネットの中の情報は、自分からひとりでに変化することはない。常に停止したままである。時間的に変化しないもの、それは現代では「情報」と呼ぶ。p. 138

  • 情報が変わったように見えるのは、新しい情報が付け加えたり、既存の情報を誰かが訂正したりするからである。元の情報は実はそのまま残っている。p. 138

  • ◉意識の中の私は、時間がたっても変わらないと言う意味で、「情報としての私」である。だからそれは「私は私、同じ私」である。p. 138

  • ところが実態としての私は諸行無常で、ひたすら移り変わる。それを例えば身体の変化として、すでに述べたとおりである。p. 138

  • 自己同一性が諸行無常に頑固に抵抗するのは、こうした社会的な約束事の存在が大きいはずである。意識が作る社会の中では、自己同一性が優先する。

  • しかし個人に戻れば、自分は諸行無常の「諸行」の方だと気づく。p. 139

_現代人は感覚所与を遮断する_

  • ◉現代人はひたすら「同じ」を追求してきた。p. 140

  • ◉最初に生じたのは、身の回りに恒常的な環境を作ることである。部屋の中に入れば、いまでは終日明るさは変化しない。風は吹かない。温度は同じである。屋外にいれば、それが都市環境となる。都内の小学校の校庭はひたすら舗装される。同じ硬さの同じ平坦な地面、それを子供に与える。安全だとか、便利だとか、清潔だとか、その時々で適当な理由付けをする。p. 140

  • ◉感覚所与を限定し、意味と直結させ、あとは遮断する。世界を同じにしているのである。p. 140

  • ◉現代社会、情報化社会は、もともとあった自然の世界に反抗して、諸行無常でない世界を構築しつつある。しかもそれを推進している現代人の多くは、それに気づいていない。p. 141

_情報は死なない_

  • ◉ヒトは必ず死ぬ。それに気づいた人の意識は、それに反抗して、死なないものを創りたいのかもしれない。p. 142

  • コンピュータの中に現在の自分の記憶を含めた機能をすべて埋め込む。そこに自分が引っ越しして、永久に生きることができる。でもその「私」とは、そもそも何者か。p. 142

  • ◉そういう事を考える人は、自分をデータが詰まったパソコンだと思っているのではないだろうか。毎日少しずつ部品が入れ替わり、七年経つと、部品が全部入れ替わっているパソコンなんて、ありませんよ。p. 142

_あなたがあなたであることを証明してください_

  • 社会契約上では、私は私、同じ私でなければならない。そこで要求されていたのは、諸行無常である生身の私ではない。情報としての私なのである。p. 144

  • 現物の私は「見たらそれとわかる」だけではなく、臭いや音声その他諸々の感覚所与を含んでいる。p. 145

  • ◉しかし情報としての私を扱うなら、私が与える感覚所与の多くは「意味を持たない雑音」に過ぎない。p. 145

  • ◉その「意味を持たない雑音」の集合が生身の私だと、私自身は思っている。しかし社会的な組織の中では、そのほとんどはまさに雑音に過ぎないのである。p. 146

9章 変わるものと変わらないものをどう考えるか

_進化の本質はズレ_

  • 進化というのは、私から見れば、常に発生過程のズレであって、それ以外のものでは無い。5億年経って、シーラカンスの卵がヒトの卵になっただけ。p. 157

_メンデルの法則は情報の法則_

  • 遺伝子の概念を創ったのは、ご存知、グレゴール・ヨハン・メンデルである。エンドウ豆を栽培して、その形質を記号で書いた。

  • ◉生物の形質を記号化する。これは情報化の基礎である。なんとメンデルは生物の形質を情報として扱った。だからアルファベットで遺伝子を表現したのである。 p. 159

  • 生物学はメンデルによって、情報学に変わったのである。p. 160

  • 十九世紀の生物学には、三つの固有の法則が知られている。それはメンデルの法則、ダーウィンの自然淘汰説、ヘッケルの生物発生基本原則である。p. 160

_「情報」の発見_

  • ◉十九世紀と、二十世紀から二十一世紀の生物学の違いはなにか。情報が意識化されたことである。p. 162

  • ◉ワトソンとクリックの有名なDNAの二重螺旋構造の論文に、一言だけ、Informationという言葉が書かれている。この時点で、生物学は明示的に情報学になった。p. 163

  • ではなにが問題なのか。時間とともに、変化する事象を、変化しない情報でどう記述するか。それが果たして可能なのか。私に答えを要求しないでくださいね。毎日、こんなことを考えて眠れないんですから。p. 163

『手入れという思想』- 養老 孟司

子どもという現代社会

  • 情報とは何か。基本的に、私が今お話ししている言葉がそうです。p. 18

  • そうしたら、言葉って何か。ここで止まっているものです。ところが、言葉が止まっていると言うふうに思っている人は、ほとんど一人もいない。p. 18

  • すべての情報が止まっている。p. 19

  • テレビの情報も一切動かないけれども、人間は二度と同じ状態を取らない位に僕と言うことです。p. 21

  • ◉日一日、人間は変わっていく。それに対してすべての情報は、いったん情報化した瞬間から止まって動きません。100年たっても、きょうのNHKニュースは同じニュースです。それが情報です。p. 21

  • 今日は昨日の続きで、明日は今日の続きだって思っているに違いない。それが現代社会です。p. 22

  • そういう感覚がどんどん強くなってくるのがいわゆる近代社会なんです。p. 22

  • ◉どうしてそうなるのか。それは徹底的に人間が作ったもので世界を埋め尽くしているからです。人間が作ったものというのは、作った瞬間に止まっちゃうんです。p. 22

  • ◉自分が変わることが嫌なのです。なぜ嫌か。現在の自分が、部分的であれ死ぬからです。そして変わった自分が世界をどう見るかは、今の自分じゃわからないからです。これは怖いことです。p. 24

  • 子どもには、そういう気持ちはありません。根本的にはないはずです。なぜなら子どもは日々育って、変わっていくからです。だから好奇心が強い。危ないことをする。そういうものなんです。p. 24

  • もう一つ、大切なことは、今の学生さんは、知ることを自分と関わりのないことだと思っていることです。p. 24

  • 問題は、まず第一に、知ることを危険なことだと親御さんが思っていないと言うことです。だから子どもに「勉強しなさい」と言う。本当の意味で知ることが勉強することであれば、子どもに平気で「勉強しなさい」とは言えなくなるんです。江戸の人はそれをよく知っていたから、何と言ったか。「百姓に学問はいらない。町人に学問はいらない」。p. 27

  • 自分が変わっていくという経験を繰り返し積み重ねっている以上は、本当に死んだって何も怖がることはないだろう。それを怖がっているのは、一度も自分が変わったことがない人だということになる。本気で変わったことがない、大きく変わったことがない。p. 29

  • ◉その根本にあるものは何か。それは私は、都市化、情報化だと言うんです。p. 29

  • ◉どうも人間と言うのは、固まったもの、固定したもの、安定したものを非常に欲しがる。文明社会になると、何だか知らないけれども、カチンカチンに固まったものを好むようになります。p. 29

  • 「変わらない」と言うことを、昔のエジプト人は執拗に追求しました。この人たちがさらに何をしたかと言うと、ミイラを作ったんですね。エジプト人も死んだらどうしたか。徹底的に固めました。固定した。変わらないようでした。p. 31

  • ◉止まって動かないものを作った人たちは他にもいくらでもいます。例えば、初めて中国を統一した、秦の始皇帝。万里の長城をつくりました。とにかく秦は土建国家でした。その意味では、エジプトも土建国家です。さらにすごい土建建国がローマです。現代でも都市化してきますと、固定したものが増えていきます。p. 32

  • そのエジプトから出て行った人たちがいるわけです。イスラエルの人たちは何も持っていなかったか。彼らはエジプトから出て行っているんですから、おそらく土建型のそういう文明は嫌いなんです。では、彼らの持っていたものは何か。それが聖書だと思います。p. 33

  • 天地創造から始まって、最後の審判までが一冊の書物の中に完全に詰まっている。このくらいカチカチに固定したものもまたない。p. 33

  • 文明というのは、土建か本か、どちらかの「固定したもの」を持っています。p. 33

  • その土建国家で書物を嫌った人が秦の始皇帝です。p.33

  • 話を戻しますと、そういう、言って見れば死んだ世界に子供を閉じ込めていっているということを、私は実は心配しているんです。p. 35

  • 情報型ということは、人が生きている実感がなくなって、データだけが増えてくるということです。p. 35

  • ◉過去に生きている人がデータ主義。官庁が典型的にそうです。データ集めをして、対策を打つでしょう。その間に世の中はどんどん変わりますから、常に手遅れです。p. 37

  • ◉文明化、近代化、情報化とは、とにかくすべて、生きている人間を無視するという傾向においては全く同じです。p. 37

  • 万物は常にならず。すべてのことは同じままではいない。若い人はこれがわからない。自己という観念が強いからです。p. 37

  • 人間は動いているけれども、情報は止まっている。それを一番見事に表現したのが『方丈記』の冒頭です。p. 38

 

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シンギュラリティー

『遺言。』- 養老 孟司

終章 デジタルは死なない

_コンピュータと人の競争_

  • ヒトにはたちの悪い性質があって、できることなら、たいていのことは機械にやらせようとする。だからリニアが走り、ドローンが飛び、コンピュータが動く。p. 174

  • でもそれをコントロールするのは、あくまで人でなければならない。そんなことは当たり前で、言うまでもないことであろう。p. 174

  • ◉一神教の世界、とくに欧米が技術の進歩を推し進めてきた。p .174

  • ◉そこには様々な要因があると思う。ただ基本的な事として、そうした世界では、自分の外に神という超越者を措定することで、自己の「現実的な範囲」を容易に超えることができた。大航海時代だって、どこに行こうが、ともかく神様はついてきてしまった。p. 174

  • 技術の究極的な問題は、遺伝子操作に代表されるヒトの改造である。コンピュータが自分より有能なコンピュータを勝手に作り出す、いわゆるシンギュラリティーというのは、ヒトがヒトを改造して、自分より有能な人を作るということとよく似ている。p. 175

  • 論理的にはこれで話はお終いである。どうするかって、それ以上考えても意味はない。後の事は、そうして創られた神様に考えてもらえばいいからである。コンピュータの世界におけるシンギュラリティーを心配するなら、人類の全知全能を傾けて、右の意味での「人神」を創ったほうがよほどマシではないか。p. 175

 

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《新実在論》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第一章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第3節 実在論的転回とは何か

_21世紀の時代精神とは_

  • この潮流は若手の哲学者が中心となっていることもあって、まだ翻訳もしてなくって今のところ全体像が把握しがたい状況です。p. 53

  • マウリツィオ・フェラーリの『新実在論入門』(2015年)によると、「実在論的転回」が明確な形で現われたのは、カンタン・メイヤスーによる『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』(2006年)からです。

  • ◉注目したいのは、実在論的展開を唱える思想家たちが、二つの重要な傾向を持っていることです。p. 55

  • ◉一つは、彼らが総じて、「ポストモダン以降」を明確に打ち出していることです。20世紀末に流行したポストモダン思想に対して、その終焉を突きつけたわけです。p. 55

  • ◉もう一つは、ポストモダン思想を、歴史的により広い視野から捉え直したことにあります。ポストモダンにおいて頂点に達する言語論的転回は、じつを言えば、すでにカントの「コペルニクス的転回」から始まっています。さらに、この伝統は、ある意味では近代哲学の創始者デカルトにまで淵源する、とされます。p. 55

_人間の消滅以後の世界をどう理解するか_

  • 20世紀の後半(70年代以降)、フーコーやデリダやドゥールーズなど、フランスの現代思想家たちが、アメリカで多くの支持を集めました。しかし、21世紀になると、そうした巨匠たちも亡くなり、思想的カリスマが不在となってしまいました。そうした状況で、新たな思想的ヒーローとして登場したのが、カンタン・メイヤスーです。p. 56

  • 「思弁的実在論」の運動を形成するきっかけになったのが『有限性の後で』です。p. 56

  • 彼の基本的な視座となっているのは、カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になったという洞察です。p. 57

  • ◉「私たちが「相関」と語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の頂のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の理解不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう。そうすると、素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことができる。」p. 57

  • こうした「相関主義」は、20世紀の現象学であれ、分析哲学であれ、免れてはいません。言語論的展開やポストモダン思想も例外ではありません。p. 58

  • ◉こうした相関主義を乗り越え、思考から独立した「存在」へと向かうのです。かつての「素朴実在論」とは区別されます。むしろ、彼が実在と考えているのは数学や科学によって理解できるものです。その立場をメイヤスーは「思弁的唯物論」と呼びます。p. 58

  • 「カント以来、(中略)いったいどうして、哲学は超越論的ないし現象学的な観念論とは反対の道を、すなわち数学が持つ非-相関的な射程を−言い換えれば、思考を脱中心化する力として正当に理解された科学的事実そのものを−理解することが可能な思考の道を歩まなかったのだろうか。哲学はなぜ、科学を思考するために、思弁的唯物論えと断固として向かうのではなく−そうすべきであったにもかかわらず−前述のような超越論的観念論えと力を注ぐことになったのか。」p. 58

  • ◉人間の思考から独立した「存在」を考えるために、メイヤスーは人類の出現以前の「祖先以前性」を問題にしたり、人類の消滅以後の「可能な出来事」を想定しています。「人間から分離可能な世界」として、科学的に考察することが可能でしょう。p. 58

  • それなのに、「相関主義」はそのような理解に目を閉ざしてきたのです。p. 58

_「新実在論」とドイツ的な「精神」の復活?_

  • ドイツでも「実在論的展開」が提唱されています。その中心的な哲学者がマルクス・ガブリエルです。p. 59

  • ◉『なぜ世界は存在しないのか』において、ガブリエルは「新実在論」を「ポストモダン以降の時代に対する名前」と呼んでいます。p. 60

  • ポストモダンの問題点は、「構築主義」に基づくところにあります。源泉は、メイヤスーと同じように、カントにあるとされています。p. 60

  • 「カントの主張によれば、私たちは世界をそれ自体であるがままに知ることができない。私たちが何を知ろうとも、ある点では、いつも人間によって加工されている、とカントは考えた。」p. 60

  • ◉「構築主義はカントの緑色のメガネを信じている。これに、ポストモダニズムは次のように付け加えた。私たちが身に付けているのは、ただ一つのメガネではなく、多くのメガネである。科学、政治、愛の言語ゲーム、詩、多様な自然言語、社会的な規約、などである。」p. 60

  • こうしたポストモダン的な「構築主義」に対して、ガブリエルは「新実在論」を提唱する。p. 61

  • 「アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ているのに対して、私たち(あなたと私)はナポリにいて、ベスビオス山を見ている。」p. 61

  • ◉[古い実在論](ガブリエルは形而上学とも呼びます):唯一存在するのは❶「ベスビオス山」だけです。p. 61

  • ◉[構築主義]:三つの対象、つまり❶「アストリッドにとってのベスビオス山」❷「あなたのベスビオス山」❸「私のベスビオス山」が存在する。それを超えて、対象や物それ自体があるわけではありません。p. 61

  • ◉[新実在論]:少なくとも、四つの対象が存在すると考えます。❶「ベスビオス山」❷「ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの観点)」❸「ナポリから見られたベスビオス山(あなたの観点)」❹「ナポリから見られたベスビオス山(私の観点)」。さらにガブリエルは❺「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実である」と述べています。p. 61

  • ◉ガブリエルによると、一方の古い実在論は「見る人のいない世界」だけを、他方の構築主義は「見る下の世界」だけを、それぞれ現実とみなしています。p. 62

  • ◉ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも存在すると考えるのです。p. 62

 
カンタン・メイヤスー.png
 
マルクス・ガブリエル.png
  • ◉『私(自我)は脳ではない−21世紀のための精神哲学』でガブリエルは、精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向を批判しています。そうした「自然主義」によれば、存在するのは、物理的なものやその過程だけになり、それ以外は独自の意味を持たなくなります。p. 62

  • ◉ガブリエルが構想する「新実在論」は、そうした科学的な宇宙だけでなく、心(精神)の固有の働きをも肯定するものとなっています。p. 63

 

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《心身二元論》

『手入れという思想』- 養老 孟司

心とからだ

  • 西行の『山家集』。p. 69

  • 西行の時代には、現在と違って「心」の中には、理屈、理性、論理という意味は含まれておりませんでした。p. 69

  • ◉なぜかというと、理屈というのはどこでも成り立つ。心ではない「物の世界」でも一応、成り立っているわけで、だから「理」は必ずしも人間の心の中にだけあるものではないと昔の人は思っていたわけです。p. 70

  • ◉すると、人間らしい心は感情だということになります。p. 70

  • 心はからだでいうと脳になります。p. 71

  • 人が死んだ場合、残るものを死体と呼びます。体という字がついています。p. 71

  • ◉からだとは、中身が抜けた「殻」です。これがからだです。亡骸(なきがら)という。もともと、「からだ」の語源は身が「から」となったからで、死体をさしているのです。からだを身体と書くのは身と殻と両方を意味しているのです。p. 72

  • 人は、死ぬと心が抜けてからだが残る。つまり、どこの国の人も、人は心とからだの両方でできていると自然に考えつきます。p. 72

  • ◉本当に心とからだを別のものと考える考え方を心身二元論と呼びますが、このような考え方で近代科学に足を踏み入れると不都合なことが起きてしまいます。p. 72

  • 「○○之墓」がついている世界は、「お彼岸」もしくは「向こう岸」、付いていない世界は「こっち岸」です。西洋人にとって墓は「この世」で、日本人にとっては「あの世」です。p. 73

  • キリスト教では、「最後の審判」というのがありまして、死者は皆、生き返って、もう一度裁きを受けることになっています。そのときにからだがないと困るという考え方がありまして、火葬を嫌がるところがあります。p. 74

  • ネパールでは、遺骨を魚に食べさせます。輪廻転生という考え方があるからです。p. 74

  • ◉人はどこで死ぬのんでしょうか。実は決まっていないのです。「死」が論理的に定義できないからです。p. 75

  • ◉約束で決めているのです。約束とは心臓が動いていない、呼吸が止まる、瞳孔が開くとかです。これを三兆候といって、従来はその三兆候が揃うことで死を決めていたわけです。p. 75

  • ただし、我々のからだには、短時間でも血液の流れを止めるとだめになってしまう器官が二つあります。脳と心臓です。酸素を強く容共する器官であるからです。p. 75

  • 筋肉であれば、次の日に電気で刺激すれば動きます。皮膚にいたっては一日くらいではまったく死にません。p. 76

  • ◉人のからだは、脳、心臓、皮膚がバラバラに死んでいくのです。p. 76

  • ◉死体は物だと人は考えます。物とは客観的に確かめられるものです。では、自分の死体というものを考えてみてください。実は、自分の死体というものはありません。自分の死体ができたときには自分はいませんから。p. 76

  • ◉「死体」というのは、あかの他人なのです。親子、兄弟の場合はどうか。親の死体とは普通は言いません。つまり、死んだ人は一種類ではないことがはっきりわかってきます。身内は死にません。身内であればいつまでも生きていると思っているのです。p. 77

  • ◉3人称だけが客観的な主体であると言うことがわかります。p. 77

  • 生きているときの人間関係が死んでも反映されているのです。p. 77

  • ◉おそらく皆さんは、死という客観的な事実があり、死体という客観的な事物が存在すると、頭から思っていたのではないでしょうか。けれども、私はそんな事はありませんと言っているのです。p. 78

  • 日本では二人称の、つまり親しい人の死体を「死体」とは言いません。はっきり言えば、死んでいないということなのです。p. 79

  • ◉三兆候が揃っているかで判断しているわけです。私たちは言葉を使って「生きている」とか、「死んでいる」とか言うわけです。これは言葉と言うものの癖ですが、いったんそういう言葉を作りますと、ものが切れてしまうのです。そこはよく理解してください。p. 79

  • ◉言葉にはものを切る癖があるということです。p. 80

  • ◉我々は言葉によって世界を切り分けていきます。「生きる」「死ね」の場合も同様で、その間に論理的な境はないのですが、言葉の上でははっきりした仕切りができます。p. 80

  • 話を元に戻すしますと、なぜ今、死のことを話したかと言うと、死んだ後には、皆さんが考える「体」と言うものが一番純粋な形で残ってくるのであって、人、文化、時代によっては「心」が抜けたと言いますが、そのことは私とは関係ないと言いたかったのです。p. 83

  • それでは次の時に何が起こっているのかと言うと、脳を含めた1つの体があって、生きているときはそこに様々な働きが付随していますが、死ぬときはそれらの働きが次第に消えていく、それだけなのです。p. 83

  • ◉「心は」は、実は「はたらき」です。「脳は」は、「つくり」です。「つくり」は「構造」で「はたらき」は「機能」です。両方あって一人になっています。我々が両者は勝手に分けているのです。p. 84

  • 我々の目が物をとらえるときには、止めてみます。その姿のまんまで永遠に続いてしまいます。それは我々の目が持っている性質です。p. 86

  • 耳では、ものが止まりません。音と言うのは、止めようがない。時間がないと音は聞こえません。p. 86

  • 言葉の一番不思議なところは、今お話ししていたように、目と耳が完全に重なっているということなんです。今わたしがしゃべっていることは、すべて文字に変えることができます。文字に変えたものを後で読んでも同じ日本語のはずです。p. 90

 

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《シンボル》

『手入れという思想』- 養老 孟司

手入れ文化と日本

  • ネアンデルタール人から現代人への変化の中で一番大きかった出来事は何かと言うと、現代人はシンボル体系を自由に操るようになったということです。p. 250

  • シンボルとは、いわば頭の中の世界のもので、その世界の典型的なものにお金があります。p. 250

  • 現代人、つまり我々人間の一番大きな特徴はシンボル体系を操るということです。p. 251

  • ネアンデルタール人の遺跡から出る道具は全て実用的な道具です。p. 251

  • ◉シンボル体系の中で使われるものというのは、そのもの自体に実用性がないのです。p. 252

 

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絶対音感

『遺言。』- 養老 孟司

1章 動物は言葉をどう聞くか

  • 動物は絶対音感の持ち主。p. 17

  • 有毛細胞 :毛を持つ感覚細胞が、音を捉える。毛の長さや数は、細胞によって違っている。その下に広がる膜の細部が振動数ごとにそれぞれ共振する。p. 17

  • 動物はこの膜の共振に素直に反応するために、絶対音感を持っている。p. 21

  • 人間は言葉を喋るために、「違う高さの音でも同じ意味の言葉」だというシステムを後天的に構築したということになる。p. 21

 

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西洋哲学

『遺言。』- 養老 孟司

4章 乱暴なものいいはなぜ増えるか

  • プラトンは史上最初の唯脳論者だった。つまり頭の中の馬、意識の中の馬こそが実在する、といったからである。頭の中で馬を想い浮かべた時、その妻が存在することは疑いえないからである。現に目の前に馬がいなくなって、頭の中に馬がいる。それこそが実在じゃないのか。p. 68

  • デカルトはすべてを疑うという当時の風潮に対して、「われ思う、ゆえにわれあり」と言った。自分が考えていることだけは、まず認めなきゃならないだろうが、と言うわけであろう。p. 68

  • カントは物自体を知ることができない、と述べた。我々に与えられているのは、感覚所与しかないからである。p. 68

  • ◉感覚は違う、違う、これとあれとは違うといい続け、意識は同じ、同じ、あれもこれも同じにしようといい続ける。その矛盾こそが、いわば西洋哲学を成立させた。p. 69

 

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禅定

『ブッダの教え』- 田村太秀

第1章 覚りへの道

_アーラーラ仙とウッダガ仙_

シッダッタは師のもとで禅定を体得すると満足できずに立ち去った

  • ◉「禅」はディヤーナ=静慮(じょうりょ)、「定」はサマディ=三昧を意味しています。p. 57

  • 禅定とは思いを沈め、心を明らかにして人間本来の姿を瞑想すること。p. 57

  • 仏教の誕生以前から古代インドで広く行われていた修行法の1つで、仏教における最も代表的な修行法といえます。p. 57

  • 身体を安静に保つ姿勢として坐法が一般に用いられるので、「坐禅」と思います。p. 57

  • 禅が覚りに向けて自分というもの、周囲との関わりを追求するのに対して、ヨーガは神との合一・恩寵を求めます。p. 57

  • 三昧とは心を一つの対象に集中して動揺しない状態をいいます。p. 57

  • 雑念を捨て去り没入するので、対象が正しくとらえられます。p. 57

  • 禅定が感覚的な痛みを感じるのに対して、三昧は肉体からかけ離れているため痛みを感じません。p. 57


【た】

《知》

『手入れという思想』- 養老 孟司

子育ての自転車操業

  • 「知」は今の若い人にとって、全て技法、つまりノーハウ、自分とは関わりのないこと、しかしそれを知っていて操作できる関係です。p. 45

  • それはおもちゃや、コンピュータや、様々な道具と同じことであって、知ることというのは、自分からは独立した別の作業です。私はそれを操作可能と言いますが、知識が操作可能なものとして受け取られていて、自分とは別だと、いうこと。そこが非常に重要です。p. 45

  • 今の若い人が、そういった意味で、「知」と自分とは別だと考えるようになった要因の一番端的なものは何か。p. 46

  • まず第一に、テレビです。世の中で起こっている事件は、だんだん現実感がなくなり、すべてテレビの中の出来事と同じで、しかも自分がそれから離れているという感覚になる。p. 47

  • 自転車操業というのは、実は私たちは明治以来同じことをしているのではないかということです。つまり親が育ったようには子供を育てていない。子供は親が生きたようには生きられません。基本的な問題はそこなんです。p. 49

  • われわれは何と考えてきたかというと、それを「進歩」と呼びました。p. 49

  • 我々の道にとって一番重要な事は「共通了解可能性」です。人のことがわかるということが、人間の社会生活では有利か不利か、お考えになるとすぐにわかります。だいたい管理職、偉い人というのは、人のことがわかる人でなければ務まりません。p. 57

  • 共通了解可能性を典型的に保証しているものの一つは言葉です。いじめもその一つで、あいつはどこか違うと言って、差別するのも典型的にそれに相当します。p. 57

  • ◉人は記号を使います。これが言葉です。人間がシンボルを操る動物だということは、すでに古くから気がついていることで、そして実はそれを保証しているのは共通了解可能性だと言いたいのです。p. 57

  • 実は言葉というのは、クオリア自体を表現することはできますが、クオリアの中で起こっている様々な量的な関係を表現することができない。p. 59

  • それを我々は主観といいます。そういう、頭の中で主観的にどういう感覚が生じているかとということは言語にはならない。それは何故かと言うと、言語は外部に表出された記号だからです。p. 59

  • ◉外部に表出された記号のことを、私たちは表現と呼びます。こういった表現の非常に大きな特徴は、それは記号ですから不変性を持っているとということです。言葉も不変性を持っています。p. 59

  • 映画のビデオを十回それをご覧ください。その反応がいちいち違うのは、皆さんの脳がそのつど変わっているからです。p. 60

  • その反応が違うのは、皆さんの脳がそのつど変わっているからです。p. 60

  • ◉つまり我々の脳は二度と同じ状態をとることはないと、私は定義しています。脳が二度と同じ状態をとらないだけではなく、現実は千変万化しています。p. 60

  • ◉しかし今や、言葉が最優先の世界になりました。言い換えれば情報の世界です。いったん表現された以上は、すべて不変な性質を帯びてしまいます。p. 60

  • ◉表現が優越する情報社会では、絶えず変化していく実在のほうが実在感を持たなくなってくるという現象があります。p. 61

  • 何千年も前から、偉い人は同じことを言っています。お釈迦さんは典型です。釈迦という人は都市に生まれて、田舎に出て行った。「生老病死」という有名な説話があります。現代人の生活は、生まれるところ、年をとるところ、病人になるところ、死ぬところ、全部が基本的に施設で起こる。p. 66

  • 年は出産期の問題、クローン問題、人工妊娠中絶問題から始まって、出生前遺伝子診断の問題、老は高齢化社会の問題、病は0157、エイズならのさまざまな病気の問題、そして死は安楽死、脳死、臓器移植。p. 68

  • ◉釈迦の時代の問題をそのまま現代社会で追いかけさせられているのです。そしてその中にいると、死んだ表現が優越していって、現実は消えていきます。特に消えていくのは自然です。p. 68

  • なぜ自然は消えていくのか。それは人の意識が作り出したものではないからです。人間はそういった異質なものを排除することによって、いわゆる進化というものを得ました。p. 68

 

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茶の本

『茶の本』- 岡倉天心

第一章 人情の椀

  • 茶は初め薬として用いられ、後に飲料となった。シナにおいては八世紀に優雅な遊びの一つとして詩歌の領域にまで浸透した。十五世紀になると、日本ではこれを一種の審美的な宗教、つまり茶道にまで高めた。p. 7

  • 美を崇拝することに基づく一種の儀式なのである。それは純潔と調和、相互愛の神秘、そして社会秩序のロマンチシズムを人々の心に根付ける。p. 7

  • 茶道の本質は「不完全なもの」を崇拝することにある。p. 7

  • ◉茶道は清潔を旨とするがゆえに衛生学であり、複雑な贅沢というよりは簡素のうちに慰安を教えるが故に経済学であり、それはまた宇宙に対する我々の比例感を定義するが故に、精神幾何学でもある。p. 8

  • 茶道は美を発見するために美を隠す術であり、あえて現すことを憚るようなものを仄めかす術である。p. 15

第二章 茶の流派

  • 茶にもその時代と流派がある。淹茶(だしちゃ)、抹茶(ひきちゃ)、煎茶である。p. 18

  • 茶をこのん粗野な状態から解放して終局の理想化に導くには、唐朝の時代精神が必要であった。p. 20

  • 我々は八世紀の陸羽をもって茶道の鼻祖とする。仏教、道教、儒教が互いに統合しようとしている時代に生まれた。その時代の汎神論的象徴主義は、人々に特殊な物の中に普遍に反映を見ることを強要した。p. 20

  • 宋人の車の理想は、唐人とは丁度その人生観が相異るように異なっていた。p. 23

  • 仏教徒の間では、道教の教義を多く取り入れた南方の禅宗が苦心丹精して茶の儀式を組織立てた。結局十五世紀になって、日本の茶の湯に発展したのが、まさにこの禅の儀式だったのである。p. 24

  • 自然をもてあそぶことがしても、一向に自然を征服したり崇拝したりしようなどとはしない。唐・宋時代の茶の湯のロマンスは、も早その茶碗に見ることはできない。p. 25

  • 早くも729年に聖武天皇は、奈良の御殿で百人の僧に茶を賜うたと記録されている。801年には僧最澄が茶の種を持ち帰り、これを叡山に植えた。p. 25

  • 南宋の禅は驚くべき速さで普及し、それと共に宋の儀式と茶の理想も広まった。十五世紀頃までには、将軍足利義政の庇護の下に、茶の湯は完全に確率し、独立した世俗の行事となった。p. 25

  • 茶は純潔と優雅を崇拝すること、すなわち主客協力してその折に世俗的なものから無上の幸福を生み出す神聖な役目の口実となった。p. 26

  • 茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地(オアシス)であって、疲れ果てた旅人たちはここに会して、芸術鑑賞という共同の泉の水を酌むことができる。茶の湯とは、茶と花と絵を主題に仕組んだ即興劇であった。p. 26

  • ◉茶室の調子を乱す一点の色なく、物の律動を損じるこそとの音もなく、調和を押し破る一挙手もなく、四囲の統一を破る一言もなく、動作はなべて素朴にかつ自然になさるべきことーこれこそ茶の湯の目的であった。p. 26

  • 茶道の道教の仮の姿なのであった。p. 26

第三章 道教と神

  • 道教の始祖老子の名も茶の歴史と深い関係がある。p. 27

  • 道教がアジアの生活に与えた主な貢献は、美学の領域においてであった。シナの歴史家は道教のことを「処世術」と呼んでいた。p. 32

  • ◉神が自然と出会うところ、そして昨日と明日が分かれるところは我々の中なのである。p. 32

  • 道教は俗世をありのままに受け入れ、儒教徒や仏教徒と異なって、悲しみと悩みのこの浮世の中に美を発見しようと努める。p. 32

  • 全体の構想が個人の構想の中でも決して失われてはならないのである。このことを老子は彼の得意とする「虚」という隠喩で説明している。p. 33

  • 虚の中にのみ本質が存在すると主張した。p. 33

  • 例えば部屋の実在性は、屋根と壁で囲まれた空虚なところに見出されるものであって、屋根や壁そのものにはないのである。水差しの有用性は、水を注ぎ込むことができる空所にあるのであって、その形状や原料に依存するのではない。p. 33

  • ◉芸術においても同一原理の重要性が暗示の価値によって説明される。何者かを言わずに置くところに、観察者はその思想を完成する機会を与えられることになり、かくして大傑作はいやおうなしに人の心を引きつけ、終には自分がその作品の一部になるように思われるのものである。p. 33

  • ◉一種の虚が観察者を誘い、その美的情緒を十二分に満たせとばかりに待っているのである。p. 33

  • 南方禅の開祖シナの第六祖慧能をもって創始とせねばならぬ。p. 35

  • ◉禅は道教と同じく相対性の崇拝である。p. 36

  • ◉真理は相反するものを理解することによってのみ達せられる。禅は道教と同じく個人主義の熱心な唱道者である。我々自身の精神活動に関係しないものは全て実在ではない。p. 36

  • 禅はしばしば正当な仏教と対立した。禅の先験的洞察に対しては、言葉は思想の邪魔物たるに過ぎない。p. 37

  • ◉禅が東洋思想に与えた特殊な貢献は、現世に来世と同じ重要性を認めたことである。事物の偉大な関係から見れば、大小の差別はなく、一原子といえども宇宙に匹敵する可能性を所有すると言う信念を禅は保持していた。p. 38

  • こうして多くの重要な討論が、庭園の草を取り、かぶらを切り、お茶のもてなしをしながらでも、次々に行われていた。

  • ◉茶道一切の理想は、人生の些事に偉大さを認めるという禅の概念から出ている。p. 38

  • ◉道教は審美的理想の基礎を供給し、禅はそれを実際的にした。p. 38

第四章 茶室

  • 数寄家と言う漢字は元来趣味の家(好家)を意味する。p. 39

  • その後様々な茶人が、茶室に対する考えに従ってさまざまに漢字を置き換え、「すきや」という語は「空屋」または「数寄屋」の意味にもとることができる。p.39

  • それが詩情を宿すために造られたつかの間の建造物である限り、「好家」なのである。p. 39

  • その当座の美的必要を満たすために置かれるものの外は、装飾品は何もない以上、「空家」なのである。p. 39

  • それが「不完全」の崇拝に捧げられ、わざわざ何物かを未完成のままに残しておいて、想像力にその感性を任せる限り、それは「数寄家」なのである。p. 39

  • 茶の湯の基礎を作ったのは、菩提達磨の像の前で、一つの椀から次々に茶を飲む禅僧達によって始められた儀式である。p. 42

  • 禅林の祭壇は床の間−客を教化するために絵や花を飾る日本間の上座−の原型であったということである。p. 42

  • わが国の偉大な茶人はすべて禅の修行者であった。そして禅の精神を現実生活の中に導入しようと試みた。p. 42

  • 露地すなわち待合から茶室に通ずる庭園の光景は静慮の第一段階であり、自己啓示への通路なのである。露地は外界との関係を絶って、茶室そのものに置いて唯美主義を十分に味わう手引きとなる新鮮な感覚を生み出すためのものであった。p. 42

  • ◉武士ならばそ刀剣を軒下の刀架にかけておく、茶室はこの上もなく平和な家であるから。それから客は腰をかがめて高さ三尺位しかない小さな入り口から茶室にそっと入り込む。これらの動作はすべての客人−貴きも賤しきも同様−に負わされた義務であって、謙虚の美徳を教えるためのものであった。p. 43

  • ◉伝統や形式に屈従する言葉、建築における個性的表現を束縛するものである。p. 47

  • 古人を愛することは一層深く、彼らを模倣することはより少なくありたいものである。p. 47

  • ギリシア人が偉大であったのは、彼らが決して古代文化から教えを得ようとしなかったからであると言われている。p. 47

  • 茶室はある美的感情をしばし満足させるために置かれるものを除いては、全く空虚である。p. 47

  • 茶室の中では反復を恐れる気持ちが絶えず存在している。部屋を飾る様々の物品は、色と意匠が重複しないように選択されなければならない。花瓶や香炉を床の間に置く場合、その丁度真中に置かぬように注意すべきである、それは空間を二等分させぬためなのである。p. 49

  • この点においてもまた日本の室内装飾は西洋の場合と異なっている。すなわち西洋の炉棚やその他の場所には物が均等に配置されている。p. 49

第五章 芸術鑑賞

  • 芸術は宗教に接近し人類を高潔にする。これこそ傑作を神聖なものとする。p. 55

  • ◉茶人達は秘蔵の品を守るのに、宗教的秘密をもってしたから、聖櫃(絹地の包みで、その柔らかな中に奥の院が収められている)自身に達するまでに、幾重にも入れられた箱をすっかり開かねばならぬこともしばしばであった。p. 55

  • この民主主義的時代においては、人々は自己の感情には無頓着に、一般に最上と考えられているものを得ようと騒ぎ立てる。高価であれば優雅でなくともよく、流行品であれば美しいものでなくともよい。p. 57

  • ◉「世人は耳で絵を批評する。」p. 58

 

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デジタル化

『遺言。』- 養老 孟司

8章 社会はなぜデジタル化するのか

_意識はデジタルを志向する_

  • 現在では、情報はついにデジタルになった。なぜデジタルなのだろうか。p. 139

  • ◉じつは「同じ」を突き詰めていくと、デジタルにならざるを得ない。p.139

  • デジタルとは、ゼロと一で、すべてが記述されることである。p. 139

  • 完全なるコピーが作成できる。コピーとはつまり元のもとと「同じ」ということで、同じものをきちんと作ろうとするなら、デジタルが最も望ましい。間違いの可能性も実際的には最小限になる。p. 139

  • 人類はここで「元のものによく似たコピー」ではなく、「理想的に同一であるもの」を手に入れることになった。p. 140

  • ◉デジタル・コピーとは、すなわち実現された「究極的な同じ」である。p. 140

  • ◉それに対して、アナログ・コピーはいわば偽物の「同じ」である。p. 140

_ジャンクにも意味がある_

  • 遺伝子と言う情報系は、ヒトの意識が構築するデジタル情報系よりも、はるかに多くの剰余を含んでいることは明らかである。p. 143

  • ◉それなら、デジタル化された情報が主流を占める現代社会は、数十億年を経て構築されてきた遺伝子情報系を持つ細胞に比較して複雑なようでありながら、実は徹底して単純化されているに違いない。p. 143

 

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《都市化》

『手入れという思想』- 養老 孟司

手入れ文化と日本

  • 車にせよ洗濯機にせよ、新しい生活の多くが入ってきた変化を「都市化」と考えた方が良いのではないかと私は思います。p. 202

  • 都市化に伴って人の考え方は変わります。p. 202

    町というのはどこ歩いても人間の作ったものしかないということがまず第一に浮かびます。地面を嫌うのです。p. 202

  • 地面というのは人間が作ったものではなく、勝手にそこにあるものだからです。そういうものは街の中ではなんとなく許せないのです。p. 203

  • その許せなさ加減というものが非常によく出ているのは、部屋の中に出てくるゴキブリです。実はチンパンジーもああいうものは嫌います。p. 203

  • 第一に、すべての必然性が理解できないからです。つまり、この部屋のこの床の上になぜ今現在ゴキブリが出て来なければいけないのかがまずわかりません。もう一つ、出てきたゴキブリがこれから何をするつもりなのかわからないということです。p. 204

  • ◉嫌なもの、不気味なもの、自分たちがコントロールできないものという、いわば典型的な原始的な心性を「自然」という対象に対して投げかけるのです。そういう嫌なものを一切消してしまっていく社会、世界が都市部であると考えられます。p. 205

  • 何事も人のせいにする人が出てきたということです。なぜかというと、人間の作ったもので世界を埋め尽くしていけば、それだけが現実になっていくからです。その「現実」にないはずの不都合はすべて人のせいにする。p. 205

  • ◉自然の中に暮らしているときに不幸な出来事が起こりますと「それは仕方がない」となるということです。一方、都会の中で不幸な出来事が起こりますと「誰のせいだ」ということになります。p. 206

  • ◉イスラムと言うのは都市の宗教だといいます。しかもああいった宗教は、イスラムもユダヤもキリスト教もすべててそうですか唯一絶対の人格神です。人格神ということは実は人です。やきもちも焼けば、怒りもすれば、喜びもするのであって、それは人と同じように感情を持った存在であり、しかも人と契約をします。ある意味では人と対等であるわけです。p. 207

  • ご存知のように、人類によって作られた一番古い都市は中近東です。その都市というのは、根本的に現在の東京と変わらない心性の人たちが住んでいるとお考えいただければよろしいと思います。p. 208

  • ユダヤ人という定義は「ユダヤ教を奉ずる人たち」というのが定義です。p. 209

  • ユダヤ人こそ典型的な都会人です。しかもそう考えるとユダヤ人がやっている職業というのもよくわかるのです。本来商人や金融業というものは都市でなければ成り立たないわけです。p. 210

  • 日本の農業というのは、非常に早くから商品生産に切り替わったのだと教わりました。つまり、農作物を作ってそれを得ると言うのは、古い形の農家ではないのです。そして、どこの家にも必ず機織りの道具がありまして、衣食住はとにかく自分のところで間に合わせるというのがのかです。p. 210

  • それに対して、ユダヤ人は商人であり、金融業者であり、芸術家であり、学者です。一般的にそういうものはすべて都市の民です。p. 210

  • ◉また都市の中というのは意識だけの世界、つまり自然のままのものは置かないところです。そういう都市が次に起こってくるのは、ユダヤ教が地中海の古代ヘレニズム文明といわれている文明の中に入り込んでいったときです。ご存知のように、古代ヘレニズムの大都市というのはローマとアレクサンドリアとコンスタンチノープルです。そういった古代ヘレニズムの中の大都市の中に発生した、ユダヤ教からできた新興宗教がキリスト教なのです。p. 212

  • ◉ところが、ヘレニズム文明は滅びてしまいます。北方の蛮族、ゲルマン人の侵入によって滅ぼされてしまう。わずかに生き残っていたローマ教会が、やがて中世に生きるゲルマン人の中に勢力を広げます。これがローマカトリックです。p. 212

  • ◉イタリアの各都市には守護聖人というものがありますが、その聖人のミイラが教会に飾ってあったりします。そうすると、これはとても一神教とは思えません。マリア信仰も専門家に聞きますと、ゲルマン人の地母神信仰が変換したものだそうです。p. 213

  • ◉本来年の中に発生した原始キリスト教がゲルマン人の社会の中に浸透していったときに、ローマカトリックが成立しまして、それが自然宗教化したということです。p. 213

  • ◉中世が進んでいきますと、今度はゲルマン人自体が都市化をしていきます。それがルネッサンスです。ルネッサンスの都市の中にゲルマン人が改めて都市宗教としてのキリスト教を作ってきます。それがプロテスタントであると理解できます。p. 214

  • ◉中国の都市思想は儒教であるということがわかります。p. 215

  • ◉論語の中には、まず第一に、意識が作らなかったもの、すなわち自然への言及がないのです。むしろ自然は使わないことを持って、我々はそれを儒教的合理主義と呼んでいます。p. 216

  • ◉最も端的な例ですが、私たちが生まれて、歳をとって、病を得て死ぬということには、意識はいっさいかかわっていません。それらは勝手に進行していきます。したがって、論語はそれについては何も言いません。お弟子さんが孔子「先生、死とは何ですか」と聞きますと、「我いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」と言うのです。p. 217

  • 中国では都市の住民は二割から三割で、七割、八割は農民なのです。儒教はその二割から三割の人たちの思想ですから、そんなものは中国人全体からすればほんの少数派です。p. 219

  • ◉農民の中、つまり七割から八割の人の中に広がっている思想は、老荘であると私は思います。p. 219

  • 私たちは中国を見るときにどうしても都市が中国であるという見方をします。なぜなら、我々は中国から文字を取り入れたからです。p. 219

  • 毛沢東という人は、この七割、八割の中から出てきています。農村型の思想の人です。中国共産党の革命に関わった人はほとんど外国留学の経験がありますが、毛沢東にはない。土着の中国人です。その毛沢東がやった大事件というのが文化大革命です。p. 220

  • 標語に一つが「批林批孔」です。孔子批判です。農村や工場へ大学生をやって生産現場で働けと言ったわけです。「都市だけが世界ではない」ということを非常にはっきりと言ったわけです。p. 220

  • 都市の民とは何か、ということを見事にしたことで言ったのが荻生徂徠です。江戸の人間を指して「旅宿人である」と言っています。転々と住むところを変え、仕事を変え、そして上昇していくというのがアメリカ人の理想的な世界です。それは都会の人間の習性です。そして実は自分自身も大変頼りがないのです。頼るものがない。だから日本ですと会社に頼ります。p. 221

  • ◉農民は違います。農民は土地に張りついている人たちですから、自分のアイデンティティーが半分、土地にあります。だから名字がなくてもよかったのです。p. 222

  • ◉都市というのは、実は土地の代わりにイデオロギーを持たないとアイデンティティーがないのです。都市の住民は非常に心もとないのだと私は思います。ですから世界中で都市宗教と言うものが成立し、伝統化していく。p. 223

  • ◉教育勅語の中に入れなかったことが二つあると言いました。それは宗教と哲学です。自分で自分の人生を考えるなということです。p. 226

  • ◉しかし教育勅語の精神は戦後脈々と生きています。したがって、公教育では一切宗教と哲学に触れないというのが日本の特徴なのです。これは恐ろしいくらい潔癖です。p. 226

  • 日本には自然宗教としての仏教が残ったのですが、日本が戦後五十年で急速に都市化してしまったものですから、いろいろな宗教が新たに出現してくる。頼りない都市の人が生きようとするわけですが、新興宗教というものは歴史がありませんのでどうしてももろいのです。p. 226

  • 都市だけでは食っていけないということは誰にもわかります。田舎が必要です。p. 229

  • 都市はエネルギーを消費するところです。過去において古代都市が維持されたのは全部森林のおかげです。森が維持してきたわけです。p. 229

  • 古代都市があった地中海沿岸、中近東、インド、中国を旅行されると一目瞭然です。なぜかというと森がないからです。都市が出来上がって徹底的に森林資源を使い尽くしたからです。p. 229

  • ◉日本の国というのはある意味で大変自然に恵まれていると昔から言われています。『古事記』にある「豊葦原瑞穂の国」という日本の国を形容した表現を読むと、『古事記』というのは外から日本にやってきた人が書いたものではないかと感じます。あれは大陸経験のある人が書いたに違いないと私は思います。p. 230


【な】

《南都六宗》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第5章 仏教の伝搬

_奈良時代_

国家の統制に用いられた奈良仏教と伝来し栄えた6つの宗派

  • 聖武天皇が東大寺をはじめ、各地に国分寺を立てました。大仏の建立された東大寺は総国分寺となり、仏教国家の中心寺院となりました。p. 240

  • 8世紀の奈良の都には南都六宗という6つの宗派がありました。p. 240

  • 倶舎、成実宗は、奈良時代初期に力を持ちました。p. 240

  • ◉三論、法相宗は国家政策にあまり役立ちませんでしたが、法相系の寺院には有名な法隆寺、興福寺があります。p. 240

  • ◉律宗を伝えた唐の僧・鑑真は朝廷の保護を受け、唐招提寺の大僧正となりました。聖武天皇、光明皇后は東大寺で鑑真より受戒され、日本で初めて受戒制度が生まれています。唐の僧・道璿が伝えた華厳宗は、聖武天皇によって皇室の宗教の地位を獲得。『華厳経』により、政教一致の奈良仏教が確立開花したとも言えます。p. 240

  • ◉この時代、各地を遊興し民衆に仏教を伝えた僧もいました。法相宗の僧・行基です。国家に奉仕しないとして処罰を受けますが、後に聖武天皇に認められ日本人初の大僧正となります。p. 240

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《脳》

『手入れという思想』- 養老 孟司

脳と表現

  • 皆さんが結婚するときのことを考えればわかります。相手の異性は約10億人います。それはどの相手が自分に適当かと論理計算で計算していたら、計算をやっているうちに自分が死んでしまうと言う事はすぐわかるはずです。p. 166

  • ◉一目惚れとか、そういうアホなことで決めているわけです。先ほど言った通り、入力にバイアスがかかっているからです。勝手なバイアスをつけて、その重みをほぼ絶対なものとして認めるから、相手が決まるんです。p. 166

  • ◉だから脳は論理機器ではない。もし論理機会であったら結論が出る前に必ず死んでいるんです。p. 167

  • 生き物はそういう馬鹿なことをしないで、非常に強くバイアスをかけています。p. 167

  • ◉そして、情報にかかっているバイアスを、意識は自分で把握することができます。p. 167

  • ◉そうした把握をしばしば感情、すなわち好き嫌いと呼んでいるんですね。これが好き嫌いの基本的な原理です。p. 167

  • ◉脳は完全な論理機械ではありません。しかし今言ったように、情報に非常に単純に係数をかけること、すなわち重み付けができると考えた途端に、感情というものが一見不合理に見えて極めて合理的なものであるということがわかってきます。p. 167

  • 感情は意識の中では不合理の代名詞にされています。何故かと言うと、論理はイコールで把握されるものですが、感情は係数によって把握されるものだからです。

  • どうして猫は魚しか食べないか。魚から入ってくる入力は猫にとって食物としてプラスの入力として働きますが、キュウリから入ってくる入力は、食物としての入力は完全にゼロです。だから、猫に意識があれば「私はキュウリは嫌いだ」と言うに決まっているわけです。そうでしょう。だから、それは主観と言うのはおかしいもので、それは主観ではなく単なるバイアスなのです。p. 169

  • コミニュケーションの基礎になっているのは、それぞれの脳が出してくる表現です。その表現の典型的なものが言葉なんです。p. 171

  • 人間はこういう大きな脳を持つことになって何をしたかというと、まず社会をつくりました。その社会の中ではコミニケーションがどうしても必要で、それが脳と脳を繋いでいる。p. 171

  • 私が絵画、音楽、言語と言ったのは、大脳皮質が作ってくる意識的な表現ですが、それ以外にも我々はもう一つ表現を持っていまして、それが「身体」です。p. 186

  • 脳はそれに対してさまざまに手を加えて、自分の思う方向に引っ張ろうとします。p. 186

  • 身体は自然ですが、脳は人工です。人間がものを作るというのは脳つまり意識がやっていることですから。都市もそうです。p. 186

  • ◉脳は、この自然である体を人工の方へ寄せようとします。p. 186

  • ◉自然というのは、ある意味では非常に安定したものですから、本当は自然に任せておけばいいんです。しかし、完全に自然に任せておくと、とても人間には見えなくなってしまいます。p. 187


【は】

《バイオテクノロジー革命》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
第1節 「ポストヒューマニズム」誕生への道

_人間のゲノム編集は何を意味するのか_

  • 1950年代に、ワトソンとクリックがDNAの「二重らせん」構造を解明して以来、生命科学と遺伝子工学が飛躍的に発展しました。p. 124

  • こうして、BT(バイオテクノロジー)革命と呼ばれる時代が到来しました。p. 124

バイオテクノロジーの進化.jpg

_人体の改変をめぐる論争_

  • 発端となったのは、ほぼ同時期に発売された二つの著作です。p. 127

  • ◉フランシス・フクヤマ『人間の終わり−バイオテクノロジーはなぜ危険か』(2002年) p. 127

  • 「本書の目的は、(中略)現在のバイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、私たちが歴史上「ポストヒューマン(人間以後)」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。これが重要なのは、人間の本性(自然)が存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで一つの種としての私たちの経験が安定的に続いてきたからである。」p. 127

  • ◉グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変する−遺伝子工学の最前線から』(2002年) p. 128

  • ストックは、バイオテクノロジーの成果を積極的に取り入れ、「費用、安全性、有効性」の条件がクリアされるならば、人間に対する遺伝子組み換えも賛成すべきだと主張しますp. 128

  • 念頭に置かれているのは、生殖細胞系列の遺伝子改変ですが、具体的には受精卵に対して遺伝子操作を行います。この技術によって遺伝子が改変されると、それが次の世代へ引き継がれていきます。この改変を何世代か繰り返していけば、やがてまったく違った生物(ポストヒューマン)が誕生する、というわけです。p. 129

_バイオテクノロジーは優生学を復活させるのか_

  • 優生学(eugenics)、19世紀の後半ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴールトンによって提唱されました。p. 130

  • 意味としては、「生物の遺伝子構造を改良することで人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義されています。p. 130

  • ナチス型では、国家や組織が主体となって、個人の生命に対して、強制的に介入します。p. 131

  • 個々人が自分の生き方を自由に選ぶのは、現代社会の大前提になっています。p. 131

_「トランスヒューマニズム」の擁護_

  • ニック・ボストロム:バイオ保守派は一般に、(中略)人間の本性を変えるために、テクノロジーを使うことに反対している。バイオ保守主義の中心的な考えは、人間のエンハンスメント(能力増強)・テクノロジーがわれわれ人間の尊厳を掘り崩してしまうだろう、ということである。p. 132

  • 「トランスヒューマニズム(人間超越主義)」:人間超越主義(トランスヒューマニズム)の考えによれば、現在の人間の本性は、応用科学やほかの合理的方法によって改良することができる。それによって、人間の健康の期間を延長し私たちの知的・身体的能力を拡張し、私たちの心的状態や気分に対するコントロールを増大させることができるのである。p. 133

 
ニック・ボストロム.png

第5節 現代は「人間の終わり」を実現させるのか

_BT革命が「人間」を終わらせる_

  • ミシェル・フーコーは1966年に『言葉と物−人文科学の考古学』を出版し、その最後で「人間の終わり」を宣言。p. 165

  • 「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれはその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば−そのときにこそかけてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと。」p. 166

  • ◉フーコーによると、「18世紀末以前には、〈人間〉というものはその実在していなかった」とされています。18世紀末に〈人間〉が誕生しそれとともに人文科学が始まるのです。この時フーコーが念頭に置いていたのはカント哲学ですが、簡単に言えば、「〈人間〉を出発に据えて、そこからあらゆる実在的領域を認識する」という考え方です。p. 166

  • 「われわれの近代性の発端は、人々が人間の研究に客観的所方法を適用しようと欲したときではなく、〈人間〉と呼ばれる経験的=超越論的二重体がつくりだされた日に位置づけられる。」p. 167

  • カントによって編み出された「人間概念」、つまり「経験的=超越論的二重体としての人間」に他なりません。p. 167

  • ◉注目したいのは、こうした「人間概念」とともに近代が始まり、人間諸科学が形成された、という点です。p. 167

  • ◉現代の構造主義的な諸学問(精神分析・文化人類学・言語学)、「人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない」、つまり人間を解消するもの。こうして、18世紀末から始まった〈人間〉は、現代において終わりつつある、とフーコーは考えるわけです。p. 167

_「神を殺した人間」はどこへ向かうか?_

  • ◉フーコーの「人間の終わり」という考えには、ニーチェの「神の死」という思想が前提にされています。神を殺害することによって、「〈人間〉の時代」が始まる、というわけです。p. 168

  • ニーチェ『ツァラストゥストラ』:「私はあなた方に超人を教える。人間とは乗り越えられるべきものである。あなたがたは、人間を乗り越えるために、何をしたか。(中略)人間は、動物と超人の間に張り渡されたされた一本の綱である。(中略)人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的でないことだ。」p. 169

  • 「神を殺害した人間」によって「近代」という時代が始まりますが、ニーチェはこの「人間」を超克すべきだと主張しています。まさに現代(兄ちゃんにとっての現在)はその始まりと言えるでしょう。p. 169

IT革命とBT革命の衝撃.jpg

_「ヒューマニズム」の終焉_

  • ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクによると、「人間」を遺伝子操作する現代は、ポスト人間主義的時代と呼ばれていますが、ここで人間主義(ヒューマニズム)という言葉には注意が必要です。p. 171

  • ルネサンス以来、人文学は「Humanities」とされますので、ヒューマニズムは「人文主義でもあります。つまりルネサンス以降の近代において、ヒューマニズムは書物による研究(人文学)であると同時に、人間を中心にした「人間主義」でもあったのです。p. 171

  • スローターダイクは、こうした近代の「人文主義=人間主義」が現代において終焉しつつある、と宣言したわけです。p. 171

  • 「現代社会が、ポスト文芸的、ポスト書簡的にそしてそれゆえにポスト人文主義的=ポスト人間主義的に規定されていることは容易に証明できる。」p. 172

  • 「こうした形式の中に、「ポスト」という前綴りがあまりにも大げさだと思う人は、これを「マージナル」と言う副詞で置き換えてもいいだろう。そうすると、我々のテーゼは、以下のような形になる。」p. 172

  • 「現代の巨大社会の政治的・文化的統合は、もはやマージナルの範囲でしか文系的、所感的、人文主義的なメディアによって生産されていないのである。学校・教養モデルとしての近代人文主義=人間主義は終焉した。」p. 172

  • ◉ルネサンス以降の近代社会では、印刷術によって可能となった書物の研究である「人文主義(ヒューマニズム)」と、人間を中心に置く「人間主義(ヒューマニズム)」が展開されてきました。ところが、現代において、こうした近代ヒューマニズムが終焉しつつあるのです。p. 173

  • ◉一方で情報通信技術の発展(IT革命)によって書物に基づく「人文主義」が、他方で生命科学と遺伝子工学の発展(BT革命)によって「人間主義」が終わろうとしています。p. 173

  • ◉近代を支配した書物の時代と人間の時代が、今や終わり始めたのです。p. 173

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《八苦》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第3章 ブッダの教え

_四苦八苦_

この世に生きる誰もが避けることのできない8つの苦しみとは?

  • ◉「愛別離苦」:等しい人とも別離する苦しみ。p. 134

  • 愛する者と死別し、生き別れしなければならない苦しみです。p. 134

  • ◉「怨憎会苦」:うらみ憎しみのある人と会わなくてはならない苦しみ。p. 134

  • 会いたくない人とでも会わなければならない苦しみです。p. 134

  • ◉「求不得苦」:求めても手に入らない苦しみ。p. 134

  • 求めても満たされない苦しみです。止めどなく出てくる欲望や欲求がある限り、この苦から逃れることはできません。これは自らが作り上げた苦しみでもあります。p. 134

  • ◉「五蘊盛苦」:身心が思い通りにならない苦しみ。p. 134

  • 自分の意思に反して信心が思い通りにならない苦しみです。病気や老い、そして死もそうです。p. 134

  • 「五蘊」とは、色(肉体)・受(感受)・想(観念)・行(心の働き)・識(認識)の5つのことで、人間はこれらが仮に束になって成り立っているだけで、自我や霊魂など実体的なものはない、という考え方です。p. 134

『英語でブッダ』- 大來 尚順

基本編

  • ◉「愛別離苦」➡︎ The Suffering of Departing from Persons or Situations One Loves.

  • ◉「怨憎会苦」➡︎ Suffering of Meeting Up with Persons or Situations One Hates.

  • ◉「求不得苦」➡︎ Suffering of Not Getting What We Want.

  • ◉「五蘊盛苦」➡︎ Suffering of Getting Attached to the Five Elements of Self.

  • 「色」= Matter、「受」=Sensation、「想」= Perception、「行」= Mental Formation、「識」= Discernment。

 

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不死

『遺言。』- 養老 孟司

終章 デジタルは死なない

_不死へのあこがれ_

  • ◉そもそもなぜ人はコンピュータが代表するような、デジタルの世界を必死で作ろうとするのか。p. 176

  • ◉便利だから、合理的だから、経済的だから。p. 176

  • ◉デジタル・パタンとは、永久に変わらないコピーである。

  • ◉なんとコンピューターの中には、すでに節が実現されている。死にそうになったら、つまり消えそうになったら、どんどんコピーを作ればいい。だからクラウドなのである。どこにコピーが存在しているのか、よくわからないけど、ともかくどこかにコピーが存在している。p. 176

  • ◉これをいたるところに置けば、実際的には死にようがなくなるではないか。だから自分の記憶、感情の全てをコンピュータに入れたらどうなるんでしょうね、という質問がなされる。その暗黙の裏は「俺は死なない」ということであろう。p. 177

  • ◉政治は世界を支配しようとする。世界とは、はじまりが空間である。空間の支配が行き着くところまで行くと、時間の超克が次の目標となる。p. 177

  • ◉人は様々な極端なことをしてきた。秦の始皇帝は万里の長城を作り、エジプトの王たちはピラミッドを作った。石で作った巨大なものなら残る。もはや世界つまり空間を支配したと思った王たちは、時を超越しようとして、ああいうとんでもないものを作った。p. 177

  • ◉それを置き換えたのは何か。文字である。書かれたものは、永久に変わらないからである。文字を使えば、あんな巨大なものを作る必要はない。p. 177

  • だから焚書坑儒だった。生き残るのは俺の特権だ。エジプトのピラミッドは文字とともに消えていく。だんだん小さくなって、代わりに中に文字が書かれるようになる。p. 178

  • ◉その傾向は現在のデジタルデータで、いわば終止符を打ったことになる。p. 178


『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
第2節 再生医療によって永遠の命は手に入るのか

_寿命革命はすでにはじまっている_

  • カーツワイル:「今、われわれは存在の基盤となるパターンのストックが保存できるようになると言う意味で、パラダイム・シフトを向かいつつある。人間の寿命は着実に伸びており、やがてその伸長はさらに加速するだろう。現在、生命と病の根底にある情報プロセスのリバースエンジニアリングが始まったところだ。ロバート・フレイタスは、老化や病気のうち、医学的に予防可能な症状の50%を予防すれば、平均寿命は150年を超えるだろうと予測する。さらに、そういった問題の90%を予防すれば、平均寿命は500年を超える。99%ならば、1000年以上生きることになるだろう。」p. 149

  • 現在、動物実験の段階で、「若返り」が可能になっていると、伝えられています。p. 150

人間の平均寿命.jpg

_不老不死になることは幸せなのか_

  • レオン・カス『治療を超えて』(2003年) p. 151

  • 「ここ数世紀の間に、老化を克服するという目標は、もはや魔法や神話の話に限られなくなってきた。つまり、近代科学の創始者たちが抱いた願望の中心には老化の克服があったのである。彼らは人間の条件を向上させるために、自分たちの計画を通じて自然を支配する可能性を追求したのであるが、向上させるべき人間の条件の中心に老化と死があったのである。しかし、バイオテクノロジーがこうした目標に関して現実に進歩を示すようになり、われわれが若さを伸ばす可能性と実質的に長くなった生に直面するようになったのは、つい最近のことである。」p. 151

  • ◉ここで確認しておきたいのは、近代科学の願望の中心に「老化の克服」があったという点です。p. 152

_老化遅延と生命延長の是非_

  • デ・グレイは、2007年に『老化の終焉−われわれの人生で老化を逆転できる若返りのブレイクスルー』を出版。p. 153

  • 人間の老化が不可避的な運命ではなく、若返りが可能であることを科学的に解明しています。老化はよいことであるといった言説を、「集団的な催眠」と呼んで激しく批判し、そこから早く脱却することを主張しています。p. 153

  • 積極的に賛成する哲学者としては、イギリスのジョン・ハリスを挙げることができます。p. 153

  • 2007年に『能力増強的進化−人間改良の倫理的根拠』を出版し、積極的に擁護する立場から議論を展開しています。p. 153

  • 「生命延長治療とそれが可能とする約束の楽観的な議論が、科学を哲学の真剣な議論においてますます増加している。(中略)もしわれわれが、老化過程のスイッチを外すことができるならば、リー・シルバーの言葉にあるように、「不死性を人類の遺伝子に書き込む」ことができるだろう。」p. 153

  • ◉反対派が提出した批判的論点は❶不公平性❷人生の退屈さ❸人格の同一性の欠如❹人口過剰❺健康維持費用の増大です。p. 154

  • ◉「われわれは生命を救うとき、単に死を延期するのである。生命の救出が単に死の延期であるならば、生命の延長治療は生命救出治療であり、またいつも生命救出治療でなければならない。(中略)生命が受容可能な質を持っている限り、われわれは生命を救う道徳的な命令を持っている。」p. 154

 

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《平安仏教》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第5章 仏教の伝搬

_平安時代_

真言宗と天台宗新宗派による「新」護国仏教の誕生

  • ◉奈良時代に融合した権力と仏教は、共に腐敗していきました。政治の刷新を図った桓武天皇は平城京に遷都し、奈良の寺院を移転することを禁じました。p. 242

  • ◉そんな中、最澄が天台宗を、空海が真言宗を開き、護国仏教に代わる新たな仏教を生み出しました。p. 242

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《ポスト言語論的転回》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第一章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第1節 ポストモダン以後、哲学はどこへ向かうのか

_ポストモダン以後の三つの潮流_

  • ◉(1)自然主義的転回 p. 39

  • アメリカ人哲学者ジョン・サールの『マインド 心の哲学』p. 39

  • 「20世紀の大部分においては言語の哲学が「第一哲学」であった。哲学の他の分野は言語哲学から派生し、それらの解決も言語哲学の帰結に依存するものとみなされた。しかし、注目の的はいまや言語から心に映った。(中略)いまや心が哲学の中心トピックであり、他の問題−言語や意味の本性、社会の本性、知識の本性−はすべて、人間の心の性質という、より一般的な問題の特殊性にすぎないと考えおこう。p. 40

  • ◉「言語」の哲学から「心」の哲学への転換と言う変化です。p. 40

  • ◉心をいわば自然科学的に研究するため、「自然主義的転回」と呼ばれることもあります。p. 40

  • ◉(2)メディア・技術論的転回 p. 40

  • フランスのダニエル・ブーニューは、レジス・ドブレとともに「メディオロジー」という学問を提唱していますp. 41

  • 記号論的−言語論的転回の後に、それを修正して語用論的展開が続くのだが、そのあとでメデイオロジー的展開がこの二つの間で、発話行為の因子と意味をなすことの条件とを結びつけ、補完する役目を果たします。p. 41

  • ◉コミュニケーションが行われるときの、物質的・技術的な媒体を問題にする学問のことです。p. 41

  • ◉「メディア・技術論的転回」と呼ぶことにしましょう。p. 41

  • ◉(3)実在論的転回 p. 42

  • フランスやドイツでは「思弁的実在論」とか「新実在論」と呼ばれる潮流が胎動し始めています。この動きは英米やイタリアを巻き込んで、次第に大きなうねりとなってきました。p. 42

  • 2011年に論集『思弁的転回』が編集されています。「大陸の唯物論」というサブタイトルをもつ。p. 42

  • さまざまな面白い哲学的な傾向と、地球のあちこちに散らばったその拠点は、支持者たちを獲得し、そうした傾向を象徴するような著作の臨界量を生み出し始めた。こうした傾向を全て網羅するのに十分な、単一の名前を見つけるのは困難であるが、私たちは「思弁的展開」と言う名称を、今や退屈になった「言語論的展開」に対比するものとして熟慮した上で、提案する。サブタイトルの「唯物論」「実在論」といのは、新たな傾向をいっそう明確にしているが、同時に物質的なものと実在的なものの間の可能な区別も維持している。p. 42

 
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20世紀以降の哲学の動向2.jpg

◉構築主義とは異なって、「思考」から独立した「存在」を問題にするのは間違いなさそうです。そのため、ここでは全体の流れを総称して、「実在論的転回」と呼ぶこともできるでしょう。p. 43

 

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《ポスト世俗化》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第五章 人類は宗教を捨てることはありえないのか
第1節 近代は「脱宗教化」の過程だった


  • ◉およそ100年前、ドイツの高名な社会学者マックス・ウェーバーは、西洋近代を合理化の過程と理解し、「世界の脱魔術か」と言う表現で規定しました。p.228

  • 西洋では宗教的権威から独立した世俗的な国家が形成され、資本主義経済が社会的に浸透したのです。また啓蒙精神に基づいて、宗教的な偏見が取り除かれ、近代科学が発展したことは、今や常識となっています。p.228

  • ◉こうした理解を受けて、20世紀には、西洋近代を「世俗化の時代」とみなすことが、一般的になりました。p.228

  • ところが、21世紀を迎えるころから、こうした世俗化の状況が世界的に転換し始めました。南米アフリカでは、宗教を信仰する人々が増加しつつあります。またヨーロッパでも、逆にイスラム教の信仰者は増えているのです。さらにアメリカでは、原理主義的な福音派はむしろ増加傾向にあります。p.229

  • ◉ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、「21世紀初頭に見られる宗教の回帰現象は、1970年に至るまで200年に以上にわたって続いてきた社会通念〔世俗化理論〕を破るものだった」と明言しています。p.229

  • ◉現代社会はむしろ、「ポスト世俗化の時代」と呼ぶ方が適切ではないでしょうか。現代ではむしろ、「世界の再魔術」が起こっているように見えます。p.230

_理性的に宗教を考える_

  • ユルゲン・ハーバマスによれば、こうした西洋近代の合理化の過程は、未だ完成しておらず、(コミュニケーション的合理性(理性)」の観点から継続しなくてはならない、というわけです。p.231

  • ハーバマス哲学は驚くことに、宗教との対話を推し進めていくのです。p.231

  • ◉おそらく、その原因の一つは、20世紀末に生命科学や脳科学などが「自然主義」を強力に打ち出し、人間の人格や精神の理解をゆがめてしまうのではないか、と危惧したことにあるでしょう。p.231

  • ◉近代科学の立場からすれば、人間もまた自然界の一員であり、その人格や精神を自然主義的に理解することが不思議なことではありません。ところが、そうした「自然主義」的理解をハーバーマスは拒否するわけです。p.232

  • 2004年にハーバマスは、キリスト教神学者ヨーゼフ・ラッツインガーと対話を行い、翌年に共著で本を出版しました。ヨーゼフ・ラッツインガーは、2005年から2013年までローマ教皇ベネディクト16世となりましたので、この対話はまさしく歴史的なもの(キリスト教と近代との出会い)だと言えます。p.232

  • 「このような表現は、ますます世俗化する社会環境の中で宗教が自己主張をし続け、今後とも当分のあいだ社会は宗教的共同体の存続を確保しなければならない、という事実の指摘を意味するだけではない。「ポスト世俗化」という表現は、宗教的共同体が、望ましい動機や態度の再生産を行ってくれているという機能に公的な感謝を表しているだけではないのだ。ポスト世俗化の社会では、信仰も他の市民たちが信仰持っている市民たちと政治的にふれあうその交流の仕方にとって重要な規範的な考えが公共の意識にも反映している。(中略)宗教の川面世俗の側も、両者が社会の世俗化を相互補完的な学習過程として理解するなら、公共の場で論争されている様々なテーマに対する相手の側からの起用を、認識上の理論からも相互に真剣に受け止めることが可能となる。」p.232

  • ◉こうして、「世俗化の弁証法」の結果として、ハードな子は現代を「ポスト世俗化社会」と捉え、理性と宗教との和解を図ろうとするのです。p.233

_多文化主義から宗教的転回へ_

  • ◉カナダの哲学者チャールズ・テイラー『世俗の時代』(2007年)を出版。p. 234

  • テイラーによると、「世俗化」という概念は、基本的に3つの意味があります。p. 234

  • 一つは、国家と教会との分離、すなわち政治と宗教との分離ですが、これによって宗教は「私事化」されます。p. 234

  • もう一つは、信仰の衰退、すなわち私的領域としての宗教が衰退していくことです。p. 234

  • ◉第三の意味の「世俗性」:「神の存在を信じないことが実質的に不可能であった社会から、信仰を持つことが断固たる信者にとってさえも単なる一つの選択肢に過ぎなくなった社会への変化である。(中略)神の存在を信じることは、もはや自明のことではない。それは選択肢の1つに過ぎないのである。そしておそらくこのことから言えるのは、少なくとも環境次第では信仰を持ち続けることが困難になる場合もありうる、ということである。」p. 235

  • ◉念頭にあったのは、表現主義とか表現革命と呼ばれる、現代の状況です。ファッションに代表される消費者中心主義とも結びついています。この立場からすると、信仰は自分本来の生き方をするための、選択肢の一つになるわけです。p. 235

  • 現代社会で「新宗教」が積極的に追求される理由も潜んでいます。p. 236

  • 『今日の宗教の諸相』:「非キリスト教的な宗教、とりわけ東洋に起源を持つ宗教の興隆があり、ニューエイジ型の諸々の活動様態、人間主義的境界とスピリチュアルなものの境界を橋渡しする諸見解、あるいはスピリチュアリティーと治療とを結びつける諸実践などの爆発的増大がある。これに加えて、ますます多くの人々が、以前なら採用できない立場と見なされたものを取り入れている。たとえば、人々は自分をカトリックであると自認しながら、その中核的教義の多くを拒否したりする。あるいは、キリスト教と仏教を組み合わせたり、場合によっては信仰の有無について確信を持たずに祈ったりする。」p. 236

_世俗化論から脱世俗化論へ_

  • ピューター・L・バーガー:「「世俗化論」という言葉は、1950年代と1960年代からの著作に関わっているが、その概念の鍵となる考えは、実に啓蒙まで跡づけることができる。その考えは、単純である。つまり、近代化は必然的に、社会と個人の心とにおいて、宗教の衰退へと導くのである。」p.238

  • ◉『世界の脱世俗化−復活する宗教と世界政治』(1999年):「私の論点は、我々が世俗化された世界に生活していると言う過程は誤りだ、と言うものである。今日の世界は、例外はあるとしても、昔と同じほど、荒れ狂ったように宗教的である。」p.238

  • 宗教的な組織が衰退していても、個人の信仰は強い場合もありますし、逆に個々人が宗教的な信仰を持っていなくても、宗教的な組織が社会的政治的役割を果たす場合もあります。p.239

 
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第2節 多様な宗教の共存は不可能なのか

_文明間の衝突は避けることができるか_

  • 21世紀になって、宗教の問題を考えるには、グローバリゼーションの流れと切り離すことができません。p. 241

  • ◉アメリカの政治哲学者サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』(1966年)。p. 241

  • 冷戦終結後の世界を理解するため、宗教を中心とした文明に注目したのです。p. 242

  • ◉「1980年代に共産主義世界が崩壊し、冷戦という国際関係は過去のものとなった。冷戦後の世界では、さまざまな民族の間の最も重要な違いは、イデオロギーや政治、経済ではなくなった。文化が違うのだ。(中略)人々は祖先や宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度などに関連して自分たちを定義づける。たとえば、人種グループ、宗教的な共同体、国家、そして最も広いレベルでは文明というように、文化的なグループと一体化するのだ。人々は自分の利益を増やすためだけでなく、自らのアイデンティティーを決定するために政治を利用する。人々は自分が誰と異なっているかを知ってはじめて、またしばしば自分が誰と敵対しているかを知ってはじめて、自分が何者であるかを知るのである。」p. 242

  • ◉フランスの哲学者マルク・クレポン『文明の衝突という欺瞞』(2002年)。p. 243

  • ◉「「キリスト教文明や「イスラム教文明」と呼ばれているものは、互いに閉じた二つの全体として、交錯も交流もなく対峙しているわけではない。苦痛に満ちた記憶の痕跡を残しただろうが、いずれにせよ実際に相互の浸透があったのである。ハンチントンが無視し理解を拒んでいるのは、このようにイスラム世界の「何らかの物」が西洋文明の一部となっていることである−西洋の「何らかのもの」がイスラム文明の一部になっているのと全く同様に。そしてまさにこうして一方から他方えと「何らかのものが通過する」(通過した)ことが、テロリストの怒りを引き起こしている。そして文明の混交化が歴史の真実である以上、テロリストはそれはテロという手段で報じるほかないのである。」p. 243

  • ◉ところが、2001年の「9.11同時多発テロ」の発生以後、状況が一変したように見えます。p. 243

  • ◉『文明の衝突』「第2部:文明間の勢力の均衡は変化している。相対的な影響力という意味では、西洋は衰えつつある。アジア文明は経済的、軍事的、政治的な力を拡大しつつある。イスラム圏で人口が爆発的に増えた結果、イスラム諸国とその近隣諸国は不安定になっている。そして、非西洋文明は全般的に自分たちの文化の価値を再確認しつつある。」p. 244

  • ◉『文明の衝突』「第4部:西洋は普遍主義的な主張のため、次第に他の文明と衝突するようになり、特にイスラム諸国や中国との衝突は極めて深刻である。地域レベルでは、文明の断層線における紛争は、主としてイスラム系と非イスラム系の間で「類似する国々の結集」をもたらし、それがより広い範囲でエスカレートする恐れもあるし、それゆえにこうした戦争を食い止めようとして、中核をなす政府が苦心することになるだろう。」p. 244

_多文化主義モデルか、社会統合モデルか_

  • フランスの宗教社会学者ジル・ケペル『テロと殉教』(2008)。p. 247

  • ケペルは西洋における二つのモデルを分類します。一つは、アメリカやイギリス、オランダなどが採用する「多文化主義」に基づくモデルで、もう一つはフランスが採用した共和主義的「社会統合」のモデルです。一方の「多文化主義」のモデルは、差異の尊重という名のもとで、各文化の交流を行わず、分離主義・隔離主義を推し進めます。その結果、急進的なテロが引き起こされる、とケペルは考えています。p. 247

  • ところが、2015年になるとフランスで起こった1月の「シャルリー・エルド事件」や11月の「同時多発テロ」を見ればフランスだけがイスラム系住民との統合に成功したとは、決して言えなくなったのです。p. 248

  • とすれば、ケペルーが2008年に分類した「多文化主義か、社会統合か」という二者選択モデルは、現在では通用しないと言えるでしょう。p. 249

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_「個人的かつコスモポリタン的」な宗教は可能か_

  • ◉ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック『〈私〉だけの神−平和と暴力のはざまにある宗教』(2008年)。p. 249

  • ◉「世俗化のパラドックス」と言う概念を使って、その2つの近代化を説明しています。p. 250

  • ◉まず「第一の近代化」において世俗化が進行し、宗教及び宗教共同体の無力化や、意味喪失が起こったのですが、今度は「第二の近代化」である現代において宗教的活性化・スピリチュアルな再魔術化への道が開かれた、というわけです。p. 250

 
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  • ベックが積極的に提唱している宗教運動には、基本的な特徴してとして二つのポイントがあります。p. 250

  • ◉具体的には「個人化とコスモポリタン」ですが、それらを彼は、二つの「近代化」の観点から理解するわけです。つまり、「コスモポリタンかと個人化が、再帰的近代化の二つの契機をなしている」のです。p. 250

  • ◉第一の近代化において、「個人I」、すなわち宗教内部における個人化(たとえばプロテスタンティズム)が生じます。p. 251

  • ◉それに対して、グローバリゼーションが展開される現代の第二の近代化において、「個人II」、すなわち宗教からの個人化(「自分自身の神」)が成立します。p. 251

  • ◉注目したいのは既存の宗教と結びつくわけではないことです。p. 251

  • ◉第一の近代化で成立するのが宗教的普遍主義であるのに対して、第二の近代化で可能となるのは宗教的コスモポリタニズムなのです。p. 251

  • ◉「宗教的普遍主義は信仰者と不信仰者の間に差別を設けるが(中略)、他方、宗教的コスモポリタニズムは信仰を持たない者や他の信仰を持つものをあるがままの多様性において相互に区別し、それらを自分自身の宗教的心理の独占を脅かすものと見るのではなく、とりあえずは全く個人的な意味での財産として、そして最終的には通常の状態として受け入れる。」p. 251

  • ◉こうしたコスモポリタニズムに必要なのは、「互いに排除しあうさまざまの普遍主義を超えて、諸宗教の相互承認という一種の基礎文化」です。p. 251

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第3節 科学によって宗教が滅びることはありえない

_グールドの相互非干渉の原理_

  • 進化生物学者のハーバード大学教授スティーブン・ジェイ・クールド『神と科学は共存できるか?』(1999年)。p. 258

  • 「科学は自然界の事実の特徴を記録し、それらの事実を統合的に説明する理論を発展させようと努力している。一方、宗教はといえば、人間的な目的、意味、価値(中略)という、同等に重要であり、しかし全く別の領域で機能している。」p. 259

  • それぞれの活動領域を守り、相手に対しては干渉しない態度が求められます。これを彼は、「NOMA原理」(非重複的教導権の原理)と呼んでいます。p. 259

  • ここでクールドは、教導権(マジステリウム)という古いラテン語を使っていますが、その言葉は、「ある一つの教え方が、有益な対話と解決の適切な道具となる領域」を意味しています。p. 260

  • ◉「科学のマジステリウムがカバーするのは経験的な領域である−例えば、宇宙はどのようなものからできていて(事実)、なぜこのようになっているのか(理論)。これに対して、宗教のマジステリウムは、究極的な意味と道徳的な価値の問題の上に広がっている。これら二つのマジステリウムは重なり合わないし、すべての問いを包摂してもいない。」p. 260

_無神論者ドーキンスの宗教批判_

  • ◉同じ進化生物学を研究しているオックスフォード大学リチャード・ドーキンスは、宗教そのものを「妄想」としてしりぞけました。p. 261

  • ◉ドーキンスによると、宗教が主張している事は、一つは神が存在すると言う「神仮説」であり、もう一つは道徳の根拠は宗教にあると言う「道徳仮説」(この表現は筆者)です。p. 262

  • 「私は神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。(中略)宗教の事実上の根拠−神がいるという仮説−は持ち堪えることができない。神はほぼまちがいなく存在しない。これが本書のこれまでのところの結論である。」p. 262

  • 宗教がなくても、人間は道徳的な行動するとドーキンスは考えています。p. 263

_宗教を自然主義的に理解する_

  • アメリカの哲学者ダニエル・デネット『解明される宗教』(2006年)出版。p. 264

  • デネットはドーキンスのように宗教を非難することはありません。p. 264

  • 今や、世界的現象としての宗教は、この惑星上の英知を結集して行うことのできる徹底的な学際的研究に、委ねられるべきである。なぜか?なぜなら、宗教は、私たちにとってあまりにも重要であるために、それについて無知のままでいる事はできないからである。宗教は、私たちの社会的、政治的、そして経済的な紛争に影響与えるばかりではなく、私たちが自分の人生に乱すまさにその意味にも、関係している。」p. 264

  • このように宗教が重要であると明言するにもかかわらず、デネットの書物は、ある意味でドーキンス以上に宗教批判の本である。宗教に陶酔している人々に対して、酔いをさますように解き放つことが、デネットの狙いです。p. 264

  • 宗教を多くの自然現象の1つと考えて、それを科学的に探求することにあります。p. 265

  • 宗教という「自然現象」を科学によって解明するわけです。p. 265

_創造説とネオ無神論_

  • 21世紀になって推進されている宗教批判は、一般に「ネオ無神論」と呼ばれています。p. 267

  • マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(2013年)。p. 267

  • 「創造説は真面目に受け取られるべき科学的仮説ではなく、人間の想像力による恣意的な捏造であって、しかもとくに古いわけでもない。それが最初に現れたのは、19世紀であり、特にアングロ・アメリカンのプロテスタンティズムにおいてである。幸運なことにドイツでは創造説は何ら役割を演じていない。(中略)創造説は宗教の自然な要素ではなく、むしろ迷信の一形態である。」p. 267

  • ネオ無神論のように創造説を批判したところで、本丸のキリスト教を批判できたことにはならない。p. 268

  • すべても「自然科学」の基準ではかろうとするネオ無神論には、危険性が潜んでいるのです。というのも、この基準では説明できない多くの現象があるからです。p. 268

  • 国家が物理的に存在しているわけではありません。とすれば、「日本国家は存在する」という仮説は、物理的に存在しないのだから、非科学的で誤っている、と結論すべきでしょうか。p. 269

 

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《ポストモダン》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第一章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第1節 ポストモダン以後、哲学はどこへ向かうのか

_「真理」はどこにも存在しない_

  • 「ポストモダン」というのはもともと建築の分野で始まりましたが、その後文化全体の新たな運動として時代的潮流となりました。p. 36

  • ◉哲学的に「ポストモダン」を定式化したのは、ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』(1979年)です。p. 36

  • ◉彼はポストモダンを「大きな物語に対する不信」と規定しましたが、万人が認めるような心理や規範を指しています。確かに、現代人は、こうした心理や規範を、もはや信じているようには見えません。p. 36

  • それに代わって、リオタールがポストモダンとして提唱したのが、小さな集団の異なる「言語ゲーム」でした。p. 36

  • ◉他とは違う「小さな物語」を着想し、多様な方向へ分裂・差異化することが、ポストモダンの流儀となりました。p. 36

  • ◉極端に言えば「言語によって世界が構築される」とみなされます。これは一般に「言語構築主義」と呼ばれる立場です。p. 36

  • ◉また「異なる言語ゲームは協約不可能である」と考えています。言語が異なる時、現実も違ってくるのは当然でしょう。「差異」を強調しついにはいずれの主張も優劣が付けられないという相対主義へと至るわけです。p. 37

  • そのため、道徳的な「善悪」や、法的な「正義」に関しても、普遍的な真理はなく、多様な意見があるにすぎないとされました。p. 38

 

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《仏像》

『ブッダの教え』- 田村太秀

第4章 教えの継承

_仏像の誕生_

仏教徒の崇拝の対象はブッダの象徴からタブー視された仏像に変わる

  • ◉ブッダは存命中から、仏教徒の信仰の対象はブッダの教え「法」のみとされ、ブッダ個人を崇拝することは禁止されていました。p. 208

  • ◉そのため、ブッダの姿を描くことなどは、当然タブーとされていました。p. 208

  • しかしブッダ亡き後、ブッダを崇拝したいという人々の気持ちは徐々に具体的な形を作っていきます。p. 208

  • まず初めに信仰の対象となったのは、ぶったの遺骨を収めたストゥーパでした。p. 208

  • ストゥーパ信仰が一般化され、より大きなものがつくられると、ストゥーパ周辺の門や欄楯に、ブッダのシンボルとして菩提樹や法輪、仏足石、卍などを浮き彫りにします。p. 208

  • ◉2世紀前半になると、インド北西部のガンダーラ地方で、ヘレニズム文化の影響を強く受けたブッダ像が制作されました。p. 208

  • ◉初めは仏伝を題材に彫られていましたが次第に大きくなり、ついにブッダ単独の像、仏像が誕生しました。p. 208

  • ◉この地で栄えた仏教美術をガンダーラ美術といいます。p. 208

  • ◉同じ頃、インド中部のマトゥーラでも仏像が作られるようになりました。こちらはヘレニズムの影響を受けない純粋なインド彫刻です。p. 208

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【ま】

《メディア》

『いま世界の哲学者が考えていること』- 岡本 裕一郎

第一章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第2節 メディア・技術論的転回とは何か

_歴史的ア・プリオリとしての言語_

  • ミシェル・フーコーの『言葉と物』 p. 45

  • 「ある文化のある時代においては、常にただ一つの「エピステーメー」があるにすぎず、それがあらゆる知の可能性の制約を規定する。それが一個の理論として明示される知であろうと、実践のうちでひそかに投資される知であろうと、このことに変わりはない。」p. 45

  • もともとエピステーメーという言葉は、ギリシャ語ではドクサ(臆見)に対置され正しい知識を意味していました。p. 46

  • それをフーコーは、知が活動するための基盤や台座という意味として使い、認識が可能になる「秩序の空間」だと考えたのです。p. 46

  • ◉「あらゆる知の可能性の制約」という言葉は、カントの『純粋理性批判』(1781年)の中で使う、認識を可能とする条件を意味していました。カントの場合は、つまり超歴史的で、普遍的な「カテゴリー」が、人間の認識を可能にするわけです。p. 46

  • ◉フーコーの場合は、エピステーメーは、時代によって異なり、歴史的に変化するのですが、それが「知を可能にする制約」という点でア・プリオリ(先天的)と言えます。p. 47

  • ◉ある時代に生きる人々は、そうしたエピステーメーを否応なく身に付け、それを通して知識を形成せざるをえません。そうした言葉を通して物の認識が可能になるわけです。p. 47

  • ◉フーコーは言語論的転回の推進者と見なすことができるのです。p. 47

_メディオロジーから技術の哲学へ_

  • 身体、空気、ペンと紙、こうした物質的な媒体(メディア)なくして言語によるコミュニケーションは成り立つことができません。p. 47

  • ◉そこでフランスのドブレによって「メディオロジー的転回」が新たに提唱されたのです。p. 48

  • ◉「中間者こそが力を持つ、媒介作用こそがメッセージの性質を決定付け、関係性が存在よりも優位に立つ。(中略)私は、高度な社会的機能を伝達作用の技術的構造とのかかわりにおいて扱う学問を「メディオロジー」と呼んでいる。」p. 48

  • それを人間の存在様式から根本的に構想し直しているのが、ベルナール・スティグレールです。「技術の哲学」を構想しています。p. 48

  • 『技術と時間』:「哲学は、その起源において、そして現在に至るまで、思考の対象として技術を抑圧してきた。技術は、非思考なのだ。」p. 49

  • ◉技術は人間を人間たらしめる最も本質的なものですが、哲学は今まで「技術」に目を向けることなく視野の外に置いてきました。p. 49

_なぜメディアが哲学の対象となったのか_

  • ジュビレ・クレーマー:「意識の諸現象が占めていた優位を、「言語論的展開」が覆し、言語へと目を転じたのと同じように、今度は、ほかならぬその言語というテーマから、メディアへと、重点が起き変わろうとしている。」p. 50

  • マンフレート・シュナイダー:「あらゆる人間が眼の代わりに緑色の眼鏡をかけていれば、それを通して見える対象が緑であると判断するに違いないだろう−そして眼は人間に諸事物をあるがままに示しているのか、あるいは諸事物でなくて眼に属している何かを諸事物に付け加える生きているのではないかを、人間は決して決めることができないだろう。」p. 50

  • フリードリヒ・キトラー:「われわれの置かれている状況を決定しているものはメディアである。」p. 51

 
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【や】

《柳宗悦》

『茶と美』- 柳 宗悦

  • 陶磁器の美は「親しさ」の美であると思う。p. 27

  • 真に美しい作は作ることそれ自らを楽しんだときに生まれるのである。p. 29

  • 器がただ利のために作られるとき、それは醜さに陥るのである。作者の心が浄まる時、器も心の美しさを受ける。すべてを忘れる刹那が美の至る刹那である。p. 29


【ら】

《理論》

『手入れという思想』- 養老 孟司

手入れ文化と日本

  • 科学の世界も実は全く同じです。科学の世界で、完璧なように見える理論が、ある時ひっくり返ることがよくある。なぜでしょうか。p. 239

  • 美しい理論と言うのは、要するに「ごみため」が見えないから美しく見えるのです。できたての頃は、まだごみためがありませんからきれいな理論だと思うわけです。しかしその理論に従ってものを考えていくと、だんだん具合の悪いことが溜まってきます。p. 239

  • そうすると、今度はごみためのごみを含めて、もう一度新しい理論を構築しなければならなくなります。p. 239

 

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《六師外道》

『ブッダの教え』- 田村太秀

序章 ブッダの基礎知識

_自由思想家の出現_
六師外道をはじめ、伝統に縛られない多くの自由思想家が誕生した

  • 紀元前6世紀以降に、ガンジス川中流域で、沙門と呼ばれるバラモン教以外の出家者が次々に現れました。p. 38

  • 従来のバラモン至上主義を否定する人々が出現し、ヴェーダの権威を認めない出家修行者「沙門」が誕生する。ブッダもこれに含まれる。p. 39

  • ◉プラーナ・カッサパ「道徳否定論者」:シュードラ(奴隷)階級に生まれた裸形の苦形僧。殺人や盗みを働いても罪にならず、逆にいくら善行を積んだとしてもその報いを受けることはないとして因果応報を否定した。p. 39

  • ◉アジタ・ケーサカンバリン「唯物論者」:地・水・火・風の物質的な4元素のみが実在し、精神的なものを全く認めない。「人間も4元素で構成され、死とともにこれら4元素は無に帰する。死後には霊魂などが残ることはないとした。p. 39

  • ◉パグダ・カッチャーヤナ「無因論的感覚論者」:地・水・火・風の物質的な4元素のほかに精神的な苦・楽・生命を加えた7元素の実在を認める。人間の個体は生死(発生と消滅)を繰り返すが、これは7元素の離散集合に過ぎず、独立した7要素は永遠に存在するとした。p. 39

  • ◉マッカリ・ゴーサーラ「宿命論的自然論者」:仏教・ジャイナ教と並び、有力な宗教に発展したアージーヴィカ教の教祖840万大劫という長い時間を得なければ、輪廻の苦しみから脱することはできず、そのあいだは、いかなる苦行も努力も報われないとした。p. 39

  • ◉サンジャヤ・ベーラッティプッタ「懐疑論者」:人間の知恵に普遍的な妥当性を求めず、善悪の後などを刑事上の問題には確実な答えはない。解脱はひたすら修行することによってのみ達成できるとした。ブッダの十大弟子のサーリプッタとモッガラーナはもとは彼の弟子だった。p. 39

  • ◉ニガンタ・ナータプッタ「ジャイナ教の開祖」:現在もインドで多くの信者を持つジャイナ教の開祖マハーヴィーラのこと。森羅万象の一切に心霊を認め、徹底した苦行によって輪廻からの解脱をめざすことを目標とした。不殺生・不妄語・不盗・不淫・無所有を絶対的に守る。p. 39


【わ】