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Seoul

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伊藤 悠吾/Yugo Ito/ダゲレオタイプDaguerreotype/湿板写真WetPlateCollodion/乾板写真DryPlateCollodion/ - Materialising the moments -
"Oblivion Terror" x "Craving For Existence" x "Physical Linkage" x "Impermanence" x "Physical Photography"

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-Physical Linkage-

(直訳すると「物理的/身体的関係」)

 

あなたがいま見ているパソコン又は携帯の画面、それはあなたの目と脳、そして光の複雑な相互作用の結果見えている世界です。

光源から発せられた光が対象Aを照らします。対象Aを照らしたその光は反射し、空間を走り抜け、あなたの虹彩、水晶体を通り抜け、次に網膜へと至ります。そして視神経がそれを脳に伝えます。こうして人間は対象Aを”見る”ことができるのです。そして対象Aから反射されたその光、私はその”反射された光”を、一度その”対象Aに触れた光”とも解釈できる、と考えています。つまり対象Aに一度触れた光子(フォトン)があなたの網膜に届いているということです。私はこれを”Physical Linkage”と呼んでいます。

したがってあなたの目にはいま、パソコン又は携帯の画面に一度触れた光の粒子が届いていることになるのですが、そんな”Physical Linkage”を得て一体何になるというのか...

それでは対象をこの液晶画面ではなく、あなたの大切なモノ、あなたの大切な人、あなたの愛する人に移して下さい。すると、いまあなたはその大切なモノ、大切な人、愛する人に一度触れた光子を得たことになります。

しかし、もしいまあなたがデジタル写真でそのモノをその人を見たのなら、残念ですが、それは結局はそのデジタルデバイスの液晶画面に触れた光子に過ぎない。そう考えると、デジタル写真だけではなく、フイルムカメラや、ダゲレオタイプや湿板写真などの古典写真技法でも写真を撮り遺しておく新たな意味が見えては来ませんか?

デジタル写真というのは、あくまでも数字の羅列(10111000110)で出来上がっている情報(データ)に過ぎません。デジタルカメラは、受けた光の像を電気信号に置き換えて写真を作り出しています。そこには、対象に触れた光子(フォトン)、なんてものは一切存在しません。

水晶体はカメラのレンズ、網膜はフイルム(フイルムカメラ)又は銀板(ダゲレオタイプ)やガラス板(湿板写真)と考えれば、フイルムカメラや、ダゲレオタイプ、湿板写真などの古典写真技術で写真を撮ることで、あなたはあなたの失いたくないモノ・人に一度触れた光子をフイルム上、ガラス板上、銀板上に溜めておくことができる、ということでなのです。その対象と繋がっているというこの心情を“Physical Linkage”と呼んでいるのです。

いま目の前に広がるこの世界は、あなたの五感が作り上げた世界に過ぎません。網膜に届いた光を、鼓膜に届いた振動を頼りに、あなたの脳が勝手に作り上げているこの曖昧な世界。私にとって“Physical Linkage”は、そんな頼りない五感を補う新たな感覚の一つなのです。「この世の視覚で捉えられる全ての対象は“Physical Linkage”で保存することができる」そう思えると、無数の光子により生み出さた感光膜面上の小さな世界が、「私」とその「対象」を五感以上に繋げてくれるように感じられる。私はそう信じ、日々、写真を撮り続けています。

 

Written in the Winter of 2013

→ ダゲレオタイプ&湿板写真はこちら


-Oblivion Terror-

(直訳すると「忘却恐怖」)

 

この世の生きとし生けるものはすべて、その子孫を残そうとします。これは全生物における第一原則です。私たちはとても脆く、永遠には生きられない。それ故、自身の種・痕跡を残そうと子孫を残します。生の欲動です。しかし、私たち人類だけにはもう一つ、この行動に突き動かされる要因があると思います。それは、フロイトの言うところの「自我(エゴ)」です。この私たちの「自我(エゴ)」は、忘却というものを恐れ、そしてそれに抗うのです。

ネアンデルタール人の埋葬の習慣も、きっとこの忘却というものを恐れていたからであろうと思います。それまでのヒト属の種とは異なり、ネアンデルタール人はかなりの高い記憶能力を得ていました。しかしそれは同時に、「忘却」という概念も得ることになったということです。この「忘却」という概念との出会い以降、我々の「自我(エゴ)」は”Oblivion Terror”に抗い続けることになるのです。

私たち人類は様々な方法で自身の痕跡を残そうとしてきました。そして私は、この人類共通の意識の流れこそが、写真発明の源泉であると考えています。つまり、写真の発明は、自身の痕跡を残そうとする本能と忘却を恐れる自我(エゴ)の所産なのです。

東日本大震災の津波被害に遭われた方々自らが、瓦礫に埋もれてしまっていた写真アルバムを探し出し、洗浄とナンバリングをして、多くの写真が皆さんの手元に戻ったといいます。みなさんが必死になったのは、お金や通帳ではなく、写真アルバムだったそうなのです。

どうしてそれほどまでに写真を取り戻そうとしたのか、それは、写真には被写体の存在を保証してくれるという力があるからです。そのことが彼らの人生の強度を保証してくれるのです。

人生の強度とは密度のことです。つまり何かの集まり。その何かとは経験です。しかし、その経験もなんらかのきっかけにより想起され意識のもとに戻ってこないと記憶になりません。だから人は写真を失うと、そのものを失ったような感覚に陥るのだと思います。経験の「経験」を果たして人はそれを「記憶」と認知するのです。そして、そのきっかけとなるのが写真なのです。写真の本質的特徴である「過去の存在」を経験させる力、これにより人生の強度は強固されるのです。

つまり、写真とは自己の人生の強度を保証し、自己の痕跡を遺すための”Oblivion Terror Management”なのです。

 

Written in the Spring of 2015